北米イギリス植民地帝国史 後編 その4

   

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 1700年、スペインのカルロス2世が亡くなった。カルロスには子がなく、姉の子フィリップ・ダンジューに全領土を譲ると遺言した。困ったのは、このフィリップというのはフランス王ルイ14世の孫にあたることである。衰えたとはいえスペインは中南米の広大な植民地以外にも南ネーデルランド(現ベルギー)やイタリアの各地を支配しており、これらが全部フランス領になったら大変である。イギリス王ウィリアム3世は神聖ローマ皇帝レオポルド1世(註1)と結んでこれに対抗し、ルイ14世はこの年亡くなった元イギリス国王ジェイムズ2世の子ジェイムズ・フランシスを「イギリス国王ジェイムズ3世」と名乗らせて再びイギリスと戦う準備を押し進めた。

 註1 彼は亡きスペイン国王カルロスの親戚。自分の息子をスペイン王にしたがっていた。

 1702年、ウィリアム3世が亡くなった。妻のメアリも既に故人となっており、子供もいないことからメアリの妹アンが即位した(註2)。5月、イギリスはフランスに宣戦布告し、ここに「スペイン継承戦争」が始まった。「ファルツ継承戦争」と同じくこの戦争も植民地に波及し、そちらでは「アン女王戦争」と呼称されている。

 註2 これでオランダとの同君連合も解消された。オランダにおけるオラニエ家の資産は遠縁のナッサウ・ディーツ家が相続したが総督には選出されず、少数の大商人(もはや実業はせず金利で生活するようになっていた)による政治が行われた。以後のオランダは基本的に大商人の共和政のもとで総督職が復活したり断絶したりし、ナポレオン時代の混乱を経て19世紀初頭に完全な「王国」となった。

 この頃フランスは北米のミシシッピー河口付近に拠点を設置し、現合衆国イリノイ州付近に3ケ所の交易所、さらに五大湖の要地にデトロイトの町を建設した。デトロイトというのは現在の合衆国の自動車産業が集中しているあのデトロイトである。1700年頃の「ヌーヴェル・フランス」全域の植民者人口は1万以下、対してイギリス人の植民者はニューイングランドで13万、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルヴァニア・デラウェアで6万5000、チェサピーク湾(ヴァージニア・メリーランド)で9万、南北カロライナで1万2000、計約30万人に達していた。

 それはさておき「アン女王戦争」勃発の際、北米のイギリス植民地で主戦場となったのはニューイングランドと南北カロライナであった。「ウィリアム王戦争」の時と同じくカナダのフランス軍はニューイングランド辺境へのゲリラ戦を繰り返して大きなダメージを与え、イギリス側はこれも前回と同じく艦隊を組織してケベックを攻略しようとした。で、今回も、いや、前回に輪をかけて、失敗した。1711年9月、出撃の時期を逸したイギリス艦隊はケベックへの往路で「冬の攻略は不可能」と考え直して退却し、帰りに数隻が難破してしまったのである。

 他方、ルイジアナ方面に進出したがっていたのがサウスカロライナ植民地である。両者間には自然の障壁が存在しないことから既にイギリス人の毛皮商人がかなり入り込んでおり、「アン女王戦争」においてはフランス側ルイジアナ植民地はチョクトー族と、サウスカロライナ植民地はヤマシー族と同盟して激しく戦った(戦わせた)。フランス本国からはルイジアナの植民者を励ますための女性(はっきり言えば慰安婦)を乗せた船と、そのあとしばらくしてから1個聯隊を派遣しようとしたが、現地にたどり着いたのは女性だけで、聯隊を乗せた艦隊は寄港地で黄熱病をもらって壊滅した。

 ただしそれでイギリス側の有利が確定した訳ではなかった。特にノースカロライナ植民地はタスカローラ族の反乱にさんざんに苦しめられ、サウスカロライナの助力を得て数年かけて鎮圧する有り様であった。カロライナ方面ではもともとインディアン同士の対立が激しく、特に戦闘能力に秀でるタスカローラ族が捕まえた敵対部族員を白人に奴隷として売り飛ばしていたことから強く恨まれていた。今回の戦いの直接の原因は白人入植者がタスカローラの土地を奪ったことによるが、結果的に反タスカローラの諸部族が積年の恨みを晴らした格好となった。

 ヨーロッパ方面では……1704年、ルック提督率いるイギリス・オランダ連合艦隊がスペインの南の端の要地ジブラルタルに奇襲攻撃をかけてこれを占領した。そのすぐ後に起こった海戦でもイギリス艦隊が勝利した。ジブラルタルは海からは攻め易いが陸からの攻撃には難攻不落を誇り、1704、5年のスペイン陸軍の攻撃を退けた。以後、現在に至るまでジブラルタルはイギリス領としてとどまっている。

 ファルツ継承戦争で打撃を被ったフランス海軍は、膨大な経費を注ぎ込んで本格的な艦隊を維持するよりも、個人や会社の所有する武装船に免許を与えて通商破壊に従事させる(私掠船戦術)という方針に切り替えていた。これは確かに効率はよいのだが、海外植民地に援軍や物資を大量に輸送するのは無理であり、しかも予算が減ったせいでイギリスとくらべて弱体化する正規の海軍は母港を敵艦隊に封鎖されれば文字どおり手も足も出なくなる。おかげでフランスの植民地は戦争の最中にもロクな援助が受けられず、そのまま窒息していくのである。

 ドイツ方面でも勝利の栄冠はイギリス軍の頭上に輝いた。1704年、マールボロ公ジョン・チャーチル将軍(註3)率いるイギリス軍1万6000が大陸(ヨーロッパ)に上陸、ひとまずオランダ軍1万と合流した。マールボロ軍はライン河右岸を南進してバイエルン軍を撃破、さらに反フランスのドイツ諸侯(註4)連合軍と合流した。

 註3 第二次世界大戦の時のイギリス首相の先祖である。

 註4  正確にいうならば「神聖ローマ帝国諸侯」。

 8月13日、ドナウ河上流北岸ブレンハイムの北にマールボロ軍5万2000が布陣した。歩兵67大隊・騎兵181中隊・大砲52門である。フランス軍はその西に展開して総勢6万、歩兵69大隊・騎兵128中隊・大砲61門である。

 戦闘は午前8時より開始された。先にフランス軍が砲撃し、それを受けたマールボロ軍が大砲・小銃の一斉射撃を行った。序盤はフランス軍優勢で、銃剣突撃をかけてきたマールボロ軍歩兵に対し騎兵を放って撃退し、さらにマールボロ軍中央を崩壊の寸前まで追い込んだ。しかしマールボロ軍も歩・騎兵をうまく連携させてこれを食い止める。一進一退の戦闘が数時間続いた。

 午後4時。マールボロ軍から胸甲騎兵8000が二列横隊で躍り出た。味方歩砲兵の猛烈な援護射撃のもと、酷暑下の激闘で疲れきったフランス軍右翼をたちまち薙ぎ倒す。これが決定打となり、ドナウ河畔に追い立てられたフランス軍は戦死1万2000、捕虜1万4000という大打撃を被って退却した。マールボロ軍も死傷者1万3000を数えたものの、戦争全体の行方は完全に逆転した。マールボロ公はこの後も数年間に渡ってオランダ・ベルギー方面に連戦連勝した。

 ……という訳で、フランス軍は防御にまわって戦争は次第に膠着状態に陥っていったのだが、そうすると今度は対仏連合軍の方が疲れてきた。フランス側の私掠船が世界の海で暴れまわり、1703〜8年にかけてイギリス商船をなんと1100隻も拿捕した。さらに、フランス陸軍は平時から40万もの総兵力を揃えていてちょっとやそっとの損害ではびくともしなかったが、1709年の「マルプラケの戦い」では勝利したマールボロ軍の方が大損害を出して本国をげんなりさせた。戦時課税にあえぐイギリスは和平交渉を開始した。

 1713年4月、「ユトレヒト講和条約」が結ばれた。結局スペイン王位はルイ14世の孫フィリップに与えられるがフランス王位とスペイン王位は決して合体しない。イギリスはフランスからカナダのノヴァ・スコシア地方を、スペインからジブラルタルとミノルカを譲られる。北米植民地の南部(カロライナとルイジアナ)は基本的に開戦前の状況に戻す。それまで帰属が不明確だったニューファウンドランド島をイギリス領として確定する。だいぶ以前からイギリスの「ハドソン湾会社」によって毛皮の採取が行われていたカナダ北部のハドソン湾沿岸もイギリス領として確定。さらにスペインから30年の期限でアシエント(スペイン植民地への黒人奴隷供給権)を貸与される……。(註5)

 註5 オランダはスペイン領南ネーデルランドの一部を、ハプスブルグ家(神聖ローマ皇帝)は別個の条約でそれ以外の南ネーデルランドと、スペインがイタリアに持っていた領土を獲得した。ただし(イタリアの)ナポリとシチリアにはその後スペイン王家の分家が入る。

 話のついでに……。1714年8月、イギリス女王アンが子供を残さずに(註6)死亡し、親戚でただ1人のプロテスタントであるドイツのハノーヴァー選帝侯がイギリス国王として推戴されることとなった(彼でなければカトリック教徒の親戚しかいないことになる)。彼はアンのまた従兄弟にあたるが姓も違うしそもそも英語が話せなかった。さんざん嫌がったがイギリス議会からの一方的な忠誠の誓いと宮廷費増額の申し出でやむなく引き受けることにした。これが「ジョージ1世」である。

 註6 実は14人とも16人とも18人とも言われる大勢の子供を産んでいたが、1人残らず死産もしくは幼時に死亡した。

 議会はともかく、一般のイギリス人にはこれはあまり面白い話ではなかった。特に怒ったのがスコットランド人である。1707年にイギリス(イングランド)とスコットランドは同一の国王を頂く「ブリテン連合王国」を組織しており、これに対する反発も燻っている。1715年、イングランド北部とスコットランドで反乱が起こり、それまでフランスで逼塞していたジェイムズ・フランシス(ジェイムズ2世の子)もそちらに上陸した。ルイ14世ならばこの機を捉えて大遠征軍を送ったかもしれないが、彼はこの直前に死んでおり、フランスはその混乱(葬式やなんや)から大した介入が出来なかった。しかもジェイムズ・フランシスはあくまでカトリックだったことからイギリス人の大半は彼に味方せず、反乱も失敗に終ってしまったのだった。

  

   植民地経済  (目次に戻る)

 戦争を繰り返してはいても、英仏両国の植民地の経済は深く結びついていた。カリブ海のフランス植民地の主産品が砂糖であることは既に述べたとおり、そこからつくるラム酒はフランス本国ではあまり売れなかった(註1)ことからむしろイギリス植民地が主なお得意先となっていた。カリブ海の諸国植民地は商業作物ばかりで食物の自給が全くなされておらず、フランス人もオランダ人もニューイングランド産の鱈やジャガイモ、ペンシルヴァニア産の小麦を喜んで買い取った。英仏の植民地戦争では毎回のようにカリブ海での戦闘が行われたが、なるべく紳士的に農園や住民を巻込まないよう留意されていた。

 註1 フランス政府はブランデーの方を保護していた。

 本国の「重商主義」経済政策によれば本当は自国の植民地が他国の植民地と勝手に貿易したりする、特にフランス植民地の砂糖製品を本国の税関を通さずに買うのは御法度なのだが、1721年に本国政府の第一大蔵卿に就任したウォルポールは基本的には重商主義にたちながらも強力な反対がありそうだと見ればあまりゴリ押ししなかった。このおかげで植民地の貿易業は大いに発展して「有益なる怠惰」と称せられ、何事にも慎重なウォルポールの第一大蔵卿職も21年に渡って続くこととなる(註2)

 註2 第一大蔵卿は後に「首相」と称せられる。議会で多数を占めた政党が内閣を組織し、議会に対して責任を持つ(政党が多数派でなくなれば辞職する)「責任内閣制(議院内閣制)」は彼の時から始まったのである。

 ノースカロライナでは、アン女王戦争で暴れまわったタスカローラ族が協定で他の地域に移住していったことから広大な空き地が出来た。植民地総督はこの土地を安値で放出し、小農民が殺到して1713〜63年の50年間で16倍もの人口増をみた。「カロライナ」は南北で全く異なる社会構成を持ち、例えば奴隷の数は南では前述の通り白人人口を上回っていたのに対し、北のそれは1756年の数字では奴隷の総人口に占める割合は2割程度であった。

 タスカローラ族の移動先となったニューヨーク西部には強力なイロクォイ連合が存在した。両者はもともと親戚関係にあることから進んで合同した。イロクォイ連合は「アン女王戦争」に際して英仏双方から山のような贈り物を貰いつつも結局何もしておらず、以後も中立を堅持してどちらからの侵入も許さない。ニューヨーク東部はオランダ時代以来の大土地所有制ががっちりと固まってしまっており、西部にはイロクォイ連合がいるせいで貧乏人が土地を得る見込みが乏しかった。1750年頃のニューヨーク植民地の人口は、その時北米にあった13のイギリス植民地中やっと6番目(7万7000人)(註3)であった。それよりも栄えていたのは南隣のペンシルヴァニアで、1730〜50年頃に南ドイツで迫害されていたドイツ人プロテスタントを大勢受け入れた。「貧乏人には最高の地」にて彼等はもっぱら小麦を生産、クエーカー商人を通じて輸出し、ペンシルヴァニアとその周辺は「パンの植民地」と呼ばれることとなる。

 註3 現在のニューヨークから考えれば少ないといいたいのである。1750年の時点では、小さい植民地はデラウェアで2万8000、ジョージアで5000、ニューハンプシャーで2万7000程度、大きい所ではヴァージニアが23万、マサチューセッツが18万、メリーランドが14万、ペンシルヴァニアが12万、コネティカットで11万であった。

 数ヵ月かけてヨーロッパの各地からやってくる移民の多くはひとまずペンシルヴァニアのフィラデルフィアの町に上陸した。彼等の落ち着き先は先に述べたノースカロライナやペンシルヴァニアだけでなくヴァージニアやメリーランドの奥地(西部)もあり、奴隷を用いない、ほとんど自給自足の世界を形成した。アメリカ史にいう「古き西部」である。

 だが、初期の植民地とくらべて社会階層の固定化がかなり進んでいたのも事実である。ヴァージニア東部の大プランターは煉瓦造りの豪邸を構えて競馬や狩猟を楽しみ、よく仕込んだ黒人の召し使いを従えていた。白人の年季契約奉公人も相変わらず大勢やってきたが1720年頃を境に黒人奴隷の方が多数を占めるに至っていた。これは、他の地域に植民地がどんどん建設されて、白人奉公人がそちらに流れていったという事情も存在する。年期明け奉公人は土地を求めて西部に向い、黒人奴隷を買う財力のない小プランターは次第に没落していった。とはいっても1770年頃、ヴァージニアに400ほどいた大プランター家族が所有していた農地はヴァージニアの全農地の1割程度にすぎず、特に西部の小農民は(植民地創設以来の伝統に従って)土地所有者として参政権を有し強い発言力を持っていた。煙草生産はまだまだ順調で、ここやメリーランド・ノースカロライナの煙草の輸出額は1770年頃における北米13植民地(註4)の輸出総額の半数を占め、特にヴァージニアの人口は13植民地中最高、初期の合衆国において大統領を輩出し「ヴァージニア王朝」と呼ばれる栄華を誇ることとなる。

 註4 アメリカ合衆国に最初に参加した植民地が13だったのである。ただし、本稿ではまだ「ジョージア植民地」については触れていない。これは1732年の創設。

 サウスカロライナが奴隷中心の経済だったことは既に見たとおり。しかしここでは黒人奴隷だけでなくインディアン奴隷の使役も盛んに行われていた。奴隷商人の手口は悪辣を極め、友好インディアンですら平気で人身売買の餌食にした。1715年、先のアン女王戦争の時サウスカロライナの忠実な同盟者だったヤマシー族がクリーク族等と組んで反乱を起こし、奴隷にされている同胞の手引きで優勢な戦いを展開した。だが結局はこの反乱も北部植民地からの援軍到着によって勢いを削がれ、クリーク族と敵対するチェロキー族が白人に味方するに及んで崩壊した。白人とインディアンの戦争、あるいはインディアン同士の戦争は、敗れた方のインディアンにほとんど絶滅に近い打撃を与えることが多かった。

 サウスカロライナにおいて「領主」の肩書きを有する大プランターの中には植民地に住まず本国から(植民地の)政治に口出しする者もおり、そのせいでインディアン戦争への対応が遅れたりした。現地の植民者はこのことに関して本国政府に陳情し、1721年をもって領主植民地から王領植民地へと移行した。ちなみに、ヴァージニアの煙草プランテーションが19世紀に入る前後から地味の枯渇によって次第に衰えていくのに対してサウスカロライナの奴隷制はその後も健在ぶりをみせ、「南北戦争」に際して南部の中心となるのである。

   

   ジョージア  (目次に戻る)

 「アン女王戦争」やそれと前後するインディアン戦争で南北カロライナが戦場となったことは、本国政府に対しイギリス植民地の南への防備に大きな関心を抱かせることとなった。1733年、サウスカロライナの南に「ジョージア植民地」が建設された。当時のイギリス国王ジョージ2世に因む命名である。これは直接的にはフロリダのスペイン植民地に対抗する前進基地との意味を持ち、さらに本国の貧困者の再出発の場としての役割を期待されていた。当時のイギリスには負債が払えない人は情け容赦なく投獄されるという法があり、「ジョージア植民地」設立の中心となった初代総督ジェイムズ・オーグルソープ将軍等は議会や慈善家を口説いて貧困者を救出し併せて植民地防衛の先兵とするための予算を獲得したのである。ジョージアはその創設に本国議会が関与した唯一の植民地である。

 植民地を運営する「信託統治会」によせられた寄付金で現地に渡航した植民者には50エーカーの土地が無料で与えられ、そのかわり有事には全ての土地所有者が武器をとって戦うことが義務付けられた。ただしそのせいで女性の土地所有権は認められず、しかも創設者オーグルソープ総督の信条に基づいて黒人奴隷の使役やアルコールの摂取が固く禁じられていた。

 おかげでこの「理想の国」への植民はさっぱり進まなかった。植民者の一部はもっと(奴隷を用いての)金儲けがしやすく酒も飲み放題のサウスカロライナへと引っ越していき、ジョージア植民地政府もやがては奴隷やアルコールを黙認することになる。「信託統治会」に与えられた勅許状の期限が切れる1752年、ジョージア植民地の人口は300人の黒人奴隷をいれてもたったの5000人にすぎず、統治会はもう喜んで植民地の王領化を承認するのであった。

 何はともあれ、ここでようやく「アメリカ合衆国」の原形となる北米13植民地が勢揃いした。北から順にニューハンプシャー・マサチューセッツ・ロードアイランド・コネティカット・ニューヨーク・ペンシルヴァニア・ニュージャージー・デラウェア・メリーランド・ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアである(註1)。17世紀初頭にヴァージニアとニューイングランドで始まった微弱な植民地は1750年頃には遂に人口100万人を突破し、全ての植民地は大プランターから小農民まで参加する議会を整備し、漁業・造船・貿易に躍進してイギリス帝国内にて重要な一角を占めるに至っていた。まだ植民地の北と西にはフランス植民地が、南にはスペイン植民地が健在で大きな脅威となってはいるが、これが消滅して他国による圧迫感が本国による抑圧感へと転じる時、13植民地は本国の支配を解き放って「アメリカ合衆国」へと脱皮するのである。

 註1 カナダとカリブ海のイギリス植民地は「アメリカ独立戦争」の後もイギリス領にとどまり続けるがそこまでは本稿の述べるところではない。

   

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 「スペイン継承戦争」の結果、イギリスはスペイン植民地に奴隷を運ぶ権利を制限つきで認められていた。制限とはつまり数のことだが、イギリス商人はもう全然問題にしていなかった。スペイン官憲として困るのはイギリス人だけではなく、スペイン植民地の商人の方も(それまで本国だけ相手にするよう強要されていたのが)イギリスやフランスを相手に手広く取引きしたがっており、そこから生じる密貿易を取り締まろうにも「スペイン継承戦争」で海軍が打撃を受けたことから警察力が著しく低下していたのである(略奪の海カリブ)(註1)

 註1 難破して海岸に座礁したスペイン財宝船のお宝をイギリス海賊が強奪したこともある。

 1738年3月17日、イギリス本国議会の議場にロバート・ジェンキンズという耳のない男が現れ、ブランデー漬けで保存しておいた耳を持って演説した。船長であった彼はカリブ海を航行中にスペインの警備艇に捕えられ、密貿易のかどで両耳を切り落とされた(註2)というのである。議員たちはスペイン官憲の残虐さに激昂し、10月には正式にスペインに対し宣戦を布告した……。もちろんこれは全くの政治ショーである。要するに密貿易を正規の貿易にかえるために武力でスペインを脅そうとしたのであり、しかも、その「ジェンキンズのブランデー漬けの耳」というのは、確かに本物ではあったが、実は7年も前のものであった。

 註2 スペイン海軍が不足であったため、海賊まがいのならず者を警備隊に用いていたのである。(略奪の海カリブ)

 ともあれ、こうして始まったイギリス・スペイン間の戦争が、いわゆる「ジェンキンズの耳戦争」である。

 この戦争ではまず先にフロリダ(スペイン領)のスペイン軍が動いてジョージア方面で1勝を奪った。ジョージア(この頃はまだ信託統治会がある)総督オーグルソープはジョージア植民地軍とサウスカロライナ植民地軍、及び友好インディアンを率いて反撃に出、スペイン要塞を包囲したが大したことは出来ず退却した。

 この間、イギリス本国では2つの艦隊を用いてパナマ地峡をカリブ海と太平洋の両側から攻略するという大規模な作戦をたてていた。39年11月、ヴァーノン提督の率いるイギリス艦隊が予定通りパナマ地峡カリブ海側のポルト・ベロを占領した。しかし、ジョージ・アンソンに率いられて太平洋に出た別働隊は嵐や壊血病のため目的が果たせず、太平洋のスペイン領の島を攻略したりした後本国にひきあげた。

 ヴァーノン艦隊もポルト・ベロを引き払って本国に戻ったが、イギリス国民に人気のあったヴァーノン提督は41年1月に再び艦隊を率いてカリブ海に姿を現した。ヴァーノン艦隊は今度は南アメリカの要港カルタヘナを攻略したが、スペイン守備隊の固い守りに阻まれ、すこし離れて再戦の機会を窺っているうちに黄熱病の流行にあって撤収した。この艦隊には後の合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの兄ローレンスをはじめとする約3000人の(北米の)イギリス植民者が志願兵として乗り組んでおり、それまで「領土人」と呼ばれていた彼等はこの遠征の時はじめて「アメリカ人」と自・他称するに至ったのだという。

 とにかく遠征は失敗である。42年5月、勢いにのったスペイン軍がジョージア植民地に上陸した。しかし彼等は7月7日にジョージア総督オーグルソープの軍の待ち伏せ攻撃にあって壊滅した。

   

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 この戦争の最中の40年10月、神聖ローマ皇帝カール6世(ハプスブルグ家)が死去し、娘のマリア・テレジアがその遺産を相続した。遺産とは具体的にはハプスブルグ家の領地たるオーストリアその他、及び神聖ローマ皇帝位である。しかしヴァイエルン選帝侯(註1)カール・アルベルトが女子による相続に反対して自分にこそ正統な相続権があると主張し、ここに「オーストリア継承戦争」が勃発した。ヨーロッパ諸国で最も強く反応したのはプロイセンのフリードリヒ2世で、当時オーストリアの一部であったシレジアをくれればマリア・テレジアの相続を承認すると一方的に通告し、既成事実としてシレジアを占領してしまったのである。

 註1 神聖ローマ帝国の諸侯の1人。

 もちろん、マリア・テレジアは断固としてプロイセンと戦う覚悟を決めた。すると、伝統的にハプスブルグ家と対立関係(註2)にあるフランス及び「スペイン継承戦争」でフランス王家の親戚になったスペインがプロイセンに加担し、ヴァイエルン選帝侯を「神聖ローマ皇帝カール7世」と名乗らせた。

 註2 ハプスブルグ家はこれまで神聖ローマ皇帝位をほぼ独占していた。先々代の皇帝レオポルド1世はファルツ継承戦争やスペイン継承戦争でフランスと戦っている。

 フランス軍はドイツの奥深くへと侵入し、一時はウィーン近くのリンツ市やそのはるか北東のボヘミア地方にまで押し寄せた。これを見たイギリスはフランス一国の強大化を憂慮し、マリア・テレジアを説得してプロイセンとの和平を結ばせた。ここでオーストリア(註3)は涙を飲んでシレジアを手放したものの、軍事的には余裕が出来てフランス軍を圧倒した。イギリス国王ジョージ2世も直々に軍勢を率いてヨーロッパ(大陸)に出陣し(註4)、フランス軍を攻撃した。

 註3 オーストリアはハプスブルグ家の主要な領地。「オーストリア帝国」という国が出来るのは19世紀に入ってから(その前後に「神聖ローマ帝国」は消滅する)で、それ以前のオーストリアは「ハプスブルグ家の領地の1つ」にすぎない。しかし一般にはこの頃からそのハプスブルグ家の諸領地を一括して「オーストリア」と呼ぶことになっている。本稿も以後これにならうものとする。

 註4 イギリス国王が戦場で直接指揮をとったのはこれが最後である。

 44年2月22日、地中海にて「ツーロン沖の海戦」が起こった。仕掛けたのはマシューズ提督率いるイギリス艦隊28隻、受けてたつのはデ・クール提督率いるフランス・スペイン連合艦隊、こちらも28隻である。マシューズ提督が大急ぎで攻撃命令を下したが、実はイギリス艦隊後衛レストック隊がまだはるか後方にあり、結局この戦闘に参加出来なかった。フランス・スペイン艦隊はそのまま退却した。レストック提督は日頃からマシューズと不仲だったのだが……後に行われた軍法会議はマシューズの方に無理があったとしてこれを免職した。

 イギリス・フランスの海軍力は正規の艦艇数で倍のひらきがあり、終始イギリス側の優勢で、大規模な海戦はほとんど行われなかった。

 北米植民地ではこの戦争は「ジェンキンズの耳戦争」と合体し、例によって国王の名を冠して「ジョージ王戦争」と呼ばれている。

 45年4月、マサチューセッツ総督ウィリアム・シャーレーの派遣した民兵隊と艦隊がカナダ沖ケープ・ブレトン島のルイスバーグ要塞を攻撃、これを占領した。フランス本国から報復の艦隊が100隻もやってきたが途中の嵐と壊血病で3000人からの人員を失って撤収した。以後、北米では大した戦闘は行われなかった。そのかわり、インドでは〜本稿ではインド植民地については言及しない〜イギリスの拠点マドラスがフランス軍によって占領されていた。

 ……これはほとんど余談だが……「オーストリア継承戦争」の戦火は実はイギリス本土にも飛び移っていた。45年7月、フランスに匿われていたジェイムズ・フランシス(ジェイムズ2世の子)の子チャールズ・エドワードがスコットランドに上陸(註5)してきたのである。彼はスコットランド北部に住むハイランダー(註6)を味方につけ、5000の軍勢でもってイギリス本土を南下した。一時はロンドンの北200?にまで達し、ロンドン市民や国王を恐慌状態に陥れたが、冷静に考えてみればこれは全く無謀な企てであった。フランスとの連絡もなかなかつけられず、戦闘で負けた訳でもないのに急に心細くなってスコットランドへと退却する。チャールズ軍はその後46年4月のカロードン・ミュアの戦いに惨敗し、チャールズ本人もフランスに逃亡したのであった(註7)

 註5 フランス軍を載せた船団は嵐で引き返したため、チャールズ・エドワードの配下はたったの7人しかいなかった。

 註6 スコットランド高地人。我々が「スコットランド」と聞いて思い浮かべるあの衣装は彼等のものである。射程距離ギリギリでマスケット銃を一斉射撃し、すぐさま刀を抜いて突撃する「ハイランダー・チャージ」戦法で恐れられていた。

 註7 彼は結局二度とイギリスの土を踏むことはなかった。ただしハイランダーの子孫たちには今もって慕われ続けている。

 1748年10月、「アーヘンの和約」が結ばれて戦争が終結した。マリア・テレジアの夫フランツを神聖ローマ皇帝とした上でハプスブルグ家の領地の大半を相続し、プロイセンは望み通りシレジアの領有を確認した。イギリスはフランスにカナダ沖のルイスバーグを返還し、フランスはイギリスにインドのマドラスを返還した。「ジェンキンズの耳戦争」の原因となったイギリス・スペイン間の経済紛争も未解決、プロイセン以外は誰も大して得しておらず、「アーヘンの和約」が単なる休戦にすぎないことは誰の目にも明らかであった。

 むしろアメリカ史にかんして重要なのは、「アン女王戦争」においてイギリス領となりつつもフランス系住民の居住と自治が認められていたカナダのノヴァ・スコシア地方の住民が強制退去となったことである(49年)。フランス人の一部は本国へ、一部はカナダの他のフランス領地域へ、残りはルイジアナへと移っていった。ルイジアナに移住した連中、いわゆる「ケージャン」の子孫は現在の合衆国においてもフランス語を用いての生活を維持し続けている(註8)

 註8 その昔『コンバット』という第二次大戦もののテレビ映画があって、ケーリー(という名前だったと思う)というフランス語が話せるルイジアナ出身のアメリカ軍兵士がレギュラーの1人として登場していた。つまり彼はケージャンだった訳ですね。しかし、ケージャンのフランス語は訛りが物凄いらしいです。(最近はそのまとまりも崩れてきているらしい)

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