第4部その3

   

   パパンドレウー時代   目次に戻る

 81年10月18日、総選挙が行われ、「変化」を唱えるパパンドレウーのパソックが得票率48%で172議席を獲得した。74年の14%、77年の25%と、倍々ゲームの支持率UPであった。カラマンリスの「新民主主義党」は115議席、共産党は13議席であった。ここに、ギリシア史上初の左派政権が誕生した。(大統領はそのままカラマンリスである。パパンドレウーは首相)

 パパンドレウー政権において、社会改革はかなり劇的に進展した。離婚が合意で行えるようになり、不倫が犯罪ではなくなった。国による医療福祉サービスも整備された。ただし対外問題についてはかつての公約が守られることはほとんどなかった。トルコとの関係は依然として平行線であり、EC(この年にカラマンリスの政策として加盟がはたされていた)に対しても一定の負担軽減を望む以上のことはしなかった。変化は実質よりもスタイルにあり(ギリシャ近現代史)、イスラエルによるレバノン侵攻を非難したり、ソ連軍機による大韓航空機撃墜事件への批判を拒否したりした(註1)のも、それをやればトルコが得をするだけ(近代ギリシァ史)のNATO完全脱退をするつもりは一切ないことを念頭においた上での行動であった。ただ、社会主義の味方を強調するあまりポーランドの自主管理労組「連帯」(註2)を「よくない運動、非常によくない運動だ」と非難したり、ルーマニアのチャウシェスク大統領(註3)と平和について語ったりしたのは今から考えると失敗としかいいようがない。経済政策のスローガンは社会主義的な「国有化」から「公有化」にシフトされ、そちらも銀行の国家管理や森林私有地の強制的買い上げ程度のことにとどまった。パパンドレウーは政界に入る前は世界的に名の知られた経済学の教授であったが、現実に政権を担当している今となっては自分の考えを押し通すことは極めて困難であった。例えば、現在のギリシア経済がECの経済統合に耐える力がないことはよく分かっているし、だからこそ野党時代にEC加盟に反対したのだが、しかし実際に加盟すれば農業補助金で極めて有利な立場に立てることも承知しており、むしろEC加盟国たることによって国内の農民層の支持を集めるという混乱ぶりであった。パソックは都市よりも農村において強固な支持を得ていた。

 註1 ソ連軍の戦闘機が大韓航空の旅客機を領空侵犯の偵察機と誤認して撃墜した事件。西側諸国はソ連にたいする轟々の非難を行ったが、パパンドレウーはソ連の言い分を認めたのである。

 註2 ソ連のつくった官製の労働組合に対抗する組織で、89年に東欧初の非共産系内閣を組織する。

 註3 共産圏にありながらもソ連に対する独自路線を強調するが、89年に革命が起こって殺される。

 83年11月、トルコ系キプロス人が一方的に「北キプロス・トルコ共和国」の独立を宣言し、それを認めたのはトルコ一国だけだったものの、またしてもギリシア・トルコ関係に緊張感が走った。翌年3月には両国の艦艇が小競り合いを起こし、86年12月には国境警備隊が衝突して双方あわせて3人の死者が出た。エーゲ海の油田をめぐる争いが再燃し、両国の軍隊が警戒態勢に入った。この時はトルコ側が石油調査船の活動範囲をトルコ領海に限定すると譲歩したことで決着したが、パパンドレウーは事件の責任をNATOの非協力的態度にあると見なし、危機に関する相談も西側より東側とのそれを優先するという前例のないことを行った。

 85年の総選挙ではパソックは46%を獲得して依然として政権にとどまったものの、右派の新民主主義党も41%と僅差につけていた。選挙が終わってから、第2次パパンドレウー政権はそれまで表面化していなかった経済危機に対する様々な政策を打ち出した。11兆ポンドという海外債務に対して高度の緊縮財政が導入され、特に公共出費を大幅に削減しようとしたことが労働者の憤激を買った。ギリシアにおける最大の雇用主は国家であり、10月に公共部門の労働者による大規模なストが行わたのは当然の結果であった。10月21日の終日ストには実に100万の労働者が参加した(ギリシアの総人口は1000万人弱)。アテネ・テッサロニキ・ピレアスの主要3都市に野党新民主主義党所属の市長が誕生し(註5)、パソック内部でも、左派がパパンドレウーの政策に強い不満を抱くようになってきた。

 註4 ただしこれは、パソックが共産党の選挙協力が得られなかったからであり、新民主主義党が伸びたからではない。(近代ギリシァ史)

 経済危機を救うのはECの援助以外に考えられなかったが、パパンドレウーはあくまでECのみに頼るのを潔しとせず、ソ連に農産物の市場をひらく等の共産圏との協調を強く示そうとした。第2次パパンドレウー政権が一定の成果をあげたのは、86年6月に成立した妊娠中絶の合法化、良心的兵役拒否者に対する他の選択肢提示といった社会改革以外には、対外関係の(トルコ以外の)さらなる改善ぐらいであった。

 その点で最も劇的なのはアルバニアであった。アルバニアは1939年から4年間イタリアの支配下におかれ、そのイタリア軍の下で40年から(形の上では)ギリシア軍と戦っていた訳であるが、実はその後47年もの間、(正式には)交戦関係が終了していなかった(朝鮮戦争以後の南北朝鮮のようなものか)。パパンドレウーがこの状態にケリをつけたのは87年8月で、翌年3月にはギリシア外相パポリアスによるアルバニア訪問が実現した。アルバニアにとっての最大の対外問題はユーゴスラヴィアのコソヴォ自治州をめぐる紛争で、アルバニアとしてはユーゴと揉めればギリシアと結ぶというのは当然の選択であった(アルバニア現代史)。

   

   政局混迷   目次に戻る

 88年夏、パパンドレウーは病気の治療のためにロンドンへと旅立った。政権がそのままだったことから政務処理に混乱が生じたのはともかくとして、病室から突然妻マーガレットとの離婚、及び34歳のスチュワーデス ディミトラ・デイアニとの再婚を宣言したものだから国中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 手術に成功したパパンドレウーが国に帰ると、今度は金融関係者による大規模なスキャンダルが発覚した。クレタ銀行の帳簿から1億ドルの不足分が発見されたこの事件への捜査はパソック党員の役人によって妨げられたという噂が立ち、それから連日のように党関係者のスキャンダルが書き立てられた。

 当然のこととして、89年6月の総選挙ではパソックは第1党から転落した(註1)。だが、意外なのはその後であった。激しい駆け引きの末に、キャスティング・ボードを握った共産党と新民主主義党との連立政権が誕生したのである。共産党のポストは内相・司法相という重要なものであり、日本であった自社連立政権よりもびっくりの結末となった。

 註1 ただ、パパンドレウーがディアニと再婚したことは一部の保守的な男性からは支持された。フェミニズムを無視したからである。(バルカンの亡霊たち)

 もちろん、こんな政権が長もちするとは最初から考えられておらず、なるべく早くパソックのスキャンダルを裁いた上で解散総選挙に訴えるというのが予定の筋書きであった。という訳でこの政府は一連のスキャンダルに関する調査委員会を設置するとさっさと解散し、同年11月に再度の総選挙を行った。

 ところが、またしてもびっくりしたのは、パソックが逆に得票率を伸ばしたことだった。これはパパンドレウー個人のカリスマ性が健在だったことや長年の利益誘導によって確固たる支持者層が出来ていたこともさることながら、保守政党との連立に憤った共産党支持者の多くがパソック支持に流れたことにも起因していた(ギリシャ近現代史)。考えてみれば当然の結果でありました。

 組閣交渉はどれもうまくいかず、やむなく超党派の「世界教会政府」(註2)がつくられた。これは暫定的なもので、5ヵ月後にまたまた総選挙を行うことが決められた。その、90年の総選挙ではようやく新民主主義党が過半数を制し(パソックは39%)、ここでやっと(比較的)安定した政局が訪れた(註3)。短期間に3度も総選挙をやるとは、まったくギリシアの政治というのは大衆紙にネタを提供するだけの下品な問題でしかないのである(バルカンの亡霊たち)。

 註2 非政治的人物である元ギリシア銀行総裁クセノフォン・ゾロタスを首班とし、閣僚ポストは新民主主義党が8、パソックが7、共産党が3であった。

 註3 93年、パパンドレウー政権が復活。

 ただし、経済が危機的なものであることには違いなく、それよりも、ギリシアの政局が混迷を極めている間に、周辺諸国の情勢があまりにも大きく変動するに至っていた。これまで表面的にはキプロスだけに限られていた民族問題が、東欧諸国の社会主義体制崩壊にともなって北からギリシアへと押し寄せてきたのである。

 まずはアルバニアである。戦前から問題になってきたアルバニア在住ギリシア人はギリシア側の主張では40万人、アルバニア側の推定では6万人を数えていたが、90年の(アルバニアの)民主化要求暴動の際にその中から数千人がギリシアへと脱出してきた(註4)。これは少なくともアルバニア政府の黙認によるもの(アルバニア現代史)で、ギリシア側では、アルバニア政府が圧力をかけた結果ではないかという疑いがもたれることになった。ギリシア政府はアルバニアの「同胞」に対し、しばらくそちらにとどまって将来の好機を待つようにと勧めることにした。

 註4 社会主義体制の時代にも国境を越えて逃げてくる者が絶えなかった。

 そのような「脱出者」はソ連からもやってきた。18世紀からロシアの黒海北岸地方等に移民したギリシア人の子孫たちはスターリン時代に「侵略的」な国の少数民族とのレッテルを貼られて中央アジアへと追放されていたが、その後の民主化を受けて故国へと戻ってきたのである。

 また、これまでトルコ領内においてギリシア人の居住が認められていたコンスタンティノープル、インヴロス及びテネドス島からも脱出の波はとまらなかった。90年代はじめのコンスタンティノープルのギリシア系人口は3000人程度に落ち込み、島嶼部でも数百人を割る有り様となった。逆にギリシア領の西トラキアに居住を許されたトルコ人は12万人を数えており、89年11月の総選挙ではトルコ人1人が選出される等、その動向には無視できないものがある。

   

   マケドニア問題   目次に戻る

 91年、ユーゴスラヴィア連邦から、マケドニア共和国が分離独立を宣言した。 このことは、これまで他国に忘れられていた19世紀以来の「マケドニア問題」を再び世 界に認識させる契機となった。ここで重複を恐れずに40年代以降のマケドニア情勢を説明しよう。

 マケドニアにおける民族意識は長い間未成熟で、セルビア・ギリシア・ブルガリアの民族主義の草狩り場 となってきたこと、その中でも独自の「マケドニア人アイデンティティ」が芽生えつつあったこと、 そしてその大部分がセルビアとギリシアに分割されたことはだいぶ前に述べたとおりである。しかし、セ ルビア領に併合され「南セルビア」とされたマケドニアの人々にとっては「セルビア化(マケドニアの言葉 はセルビア語と若干異なるが、セルビア語の使用を強制され、「マケドニア」という地理的名称すら許され なかった)」は甚だ違和感を感じるもの(ユーゴスラヴィア現代史)(註1)で、 そのあたりに理解を示した(もしくは利用価値を認めた)ユーゴスラヴィア共産党がまず40年に独立した 「マケドニア民族」としての民族自決権を認めるに至った。また、 共産党とは別にブルガリアの支持を受ける「内部マケドニア革命組織(VMRO)」も勢力を拡大していたが、 ようやくセルビア・ブルガリア・ギリシアいずれでもない「マケドニ ア人」たる民族意識が確定してきたのである。 そして大戦後の社会主義体制下において、マケドニアはセルビアやクロアチアと同格の 「マケドニア共和国」の組織を認められ、ユーゴスラヴィア連邦の一翼を担うこととなる。

 註1 セルビアと同語同宗教のモンテネグロですら、歴史的にセルビアと違う政権を維持してきたことから、ユーゴスラヴィアの中でセルビアと同一視されることを嫌い、後の社会主義体制の中でセルビアと同格の「モンテネグロ共和国」を建設することになる。

 ここでギリシアである。1991年のユーゴスラヴィア連邦からのマケドニア独立宣言に際し、 ユーゴ連邦内においてはセルビア共和国がマケドニアの連邦離脱に反対したが、 ブルガリアはセルビアを牽制する目的から(バルカン史)素早くマケドニアの独立を承認した。 しかしマケドニア共和国がこの時点で「全マケドニアの統一」を唱えていたことがギリシアの神経 を逆撫でしたたのである。そこでマケドニア共和国はギリシア領に対する領土要求を放棄するとの公式発表を行ったが、 ギリシアはさらに、独立承認が欲しいなら「マケドニア」という国名を変更せよと要求した。

 「マケドニア」が歴史的にみてギリシア人居住地の名称である(註2)以上、 ギリシアの外に「マケドニア」を名乗る主権国家の創設を認めることは出来ないとの主張は他国にとっては 甚だ理解しにくい話であるが、ギリシア人のマケドニア共和国に対する感情は、 長年のトルコに対するそれよりももっと敵対的なものとなった(ギリシャ近現代史)。 具体的にはマケドニア憲法にある「在外マケドニア人」への援助条項がギリシア領への領土要求につながり かねないとの申し立てを行うに至った。さらに、マケドニア共和国がフィリッポス2世の墓から発見された 「十六条の光芒を放つヴェルギナの太陽」を国章として採用したことがさらにギリシアを怒らせた。 フィリッポス2世とは古代のマケドニア王でアレクサンドロス大王の父にあたり、 現在マケドニア共和国の首都となっているスコピエは古代のマケドニアには入っていなかったのである。

 註2 アレクサンドロス大王の古代マケドニア王国は昔はギリシアに対する征服者であると考えられていたが、19世紀後半からギリシア史の一部として再認識され、その意味でもマケドニアをギリシア固有の領土とする主張がなされた。

 それに……、実を言うと、ギリシア領マケドニアの住民には「マケドニア人アイデンティティ」を持つ人が多いのである。これはギリシアにとってもゆゆしき問題であり、その意味でも、「マケドニア」なる独立国家を認める訳にはいかないのだ。

 結局マケドニアは93年4月にはギリシアの反対のためECの独立承認を得られないまま、「旧ユーゴスラヴィア・マケドニア共和国」なる暫定的(中途半端)な国名を背負って国際連合に加盟した。

                                 

つづく

(現代史であるため、「おわり」には出来ません。結語のようなものも避けておきます)

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