第4部その2

   

   国王一揆   目次に戻る

 国外問題をなんとか解決すると、今度は国内での問題が待っていた。パパゴス、カラマンリスと10年続いた右派政権は軍の内部に自派の勢力を強固に築いており、パパンドレウーはそれらを新たに自分の勢力に置き代えようと努力した(近代ギリシァ史)。すると当然危機感を抱く軍が巻き返しに出る。65年5月、軍内部の極左組織「楯」の陰謀が摘発され、これに首相の息子アンドレアス・パパンドレウーが関わっているとの噂が流れたのである。それが本当かどうかは別として、パパンドレウーの左傾化は明らかに感じられ、内戦中から服役していた共産主義者の釈放(全員ではない)はまだいいとしても、大戦中のEAM参加者イリアス・ツリモコスの入閣や、(パパンドレウーが)ソ連からのモスクワ招待を受けたりした(実現せず)のも、軍や政界右派の疑念を誘うに充分のものであった(前掲書他)。

 さらにパパンドレウーは、軍の人事改革に反対する国防相を解任し、自分がこのポストを兼任しようとした。ところが国王は、国防相の解任は認めたもののパパンドレウーの兼任は拒絶した。「楯」事件における息子の嫌疑が晴れていない現段階におけるかような行動は適切ではないとの理由であった(ギリシャ近現代史)。パパンドレウーは辞表を提出した。彼の見込みでは国王は譲歩するか議会を解散してくるハズであった(近代ギリシァ史)のだが、国王はそのどちらでも辞表を受理するのでもなく首相を解任するという手段に出た。

 次の組閣は難航したが、パパンドレウーの副大臣だったステファノス・ステファノプロスが自分の党首に見切りをつけ、右派の急進国民連合その他との連立政権を組織した。一連の動きは「国王一揆」と呼ばれ、学生や労働者がパパンドレウー支持の大規模なデモを行った。パパンドレウーは総選挙の実施を訴えた。雑多な勢力の寄せ集めであり、議会でも僅差の信任しか得ていないステファノプロス連立政権はいつ倒壊してもおかしくない状態であり、(閣内から反対者が出そうな)何の政策も打ち出さないことによってどうにか持ちこたえるという情けない有り様であった(前掲書)。国民一般に政治不信が広がり、右派勢力はこの機に極左が伸長するのを恐れ出した(ギリシャ近現代史)。

 結局、カネロプロス(カラマンリスの後継者)の急進国民連合が連立政権を離脱し、67年5月の総選挙実施を前提としてパパンドレウーと共に超党派の選挙管理内閣を組織した。ところが、先に述べた「楯」事件との関連を疑われていたアンドレアス・パパンドレウーをめぐる対立がこの内閣をぶち壊した。国会議員として免責特権を有しているアンドレアスは国会が解散されれば起訴の対象となるが、彼の父親は選挙期間中までその特権を延長することを求め、カネロプロスの反対を受けて閣内の分裂を来してしまったのである。

 国王は今度はそのカネロプロスに組閣を指示したが、カネロプロスは議会での信任を不可能と見て遂にこれを解散した。総選挙は5月28日と決められた。この情勢下ではパパンドレウー及び左派勢力の勝利はほぼ確実と見られた。

   

   軍事政権   目次に戻る

 4月21日、突如陸軍の中堅将校団がクーデターを決行した。これは明らかにパパンドレウーの政権獲得の機先を制したものだが、パパンドレウーだけでなく国王・政党・軍上層部すべてが虚を突かれた形となった。クーデターの首謀者となったパッタゴス准将、パパドプロス、マカレゾス両大佐の3人は最高法院の高等検事コンスタンディノス・コリアスを首班とする名目上の文民政府を国王に承認させ、今回の政変は「共産主義者の陰謀」なるものから国家を防衛するためのものであると表明した。臨時政府を主導する「大佐たち」は今回の政変を「1967年4月21日革命」と呼称した。

 臨時政府は価格凍結令・年金の増額・土地の再配分等の人気取りを進めつつも新聞の検閲や集会の禁止を強行し、カネロプロスやパパンドレウー父子をはじめとする政界の有力者を拘引した。全ての政治家は腐敗しており信用に値しないと弾劾された。共産諸国と国境を接する地方の田舎町に駐留していた大佐たちは、自分たちが国家の敵から国境を守っている間、中央のエリートたちが手の込んだ政治ゲームに耽っていると考え強い不満を抱いていた(ギリシャ近現代史)。

 とはいっても大佐たちは非立憲的な支配を望んでいた訳ではなく、政党の利害が衝突する場としての議会(立法府)から行政府を分離させる新憲法の実現を目指すといった、フランス第五共和政(註1)をモデルとした新体制の実現に意を注いだ。

 註1 ド・ゴールが1958年に創設した新体制。強力な大統領権力にその特徴がある。

 12月13日、国王が逆クーデターを行った。名目上の首相であったコリアスが賛同したが、(国王に忠誠を誓ってくれそうな)軍の上層部は既に退役を強要されており、アテネを脱出して王党派の結集を呼びかけた国王のもとにはほとんど誰もやってこなかった。国王と首相はローマに逃亡した。

 臨時政府では新たに「革命」の指導者パパドロプス大佐が首相に就任し、ここで名実揃った軍事独裁政権が誕生した。大佐たちはさらに農民の借金棒引きや労働者給与の引き上げ等を行うが、男子の長髪や女子のミニスカートを禁止したり、学校の社会の授業に「パパドロプス語録」を取り入れたりしたのは顰蹙ものであった。最も厳しく弾圧された共産主義者のみならず、伝統的な右派(王党派)を率いてきたカネロプロスやカラマンリスも臨時政府を糾弾した。翌68年11月に死去したパパンドレウー(父)の葬儀には50万の市民が参列し、議会政治家への哀悼を通じて軍事独裁政権への無言の抗議を行った。大佐たちは志は高かったがやり方が極めてまずかった。

   

   再びクーデター   目次に戻る

 ただし、軍事政権の基礎はかなりしっかりしたものだった。経済は比較的安定していた上に、強く反共を訴えたことからアメリカの支持を確保していた。本当かどうかはわからないが大佐たちの裏にはCIAの影があるとの噂は常に流れており、(アメリカの)ジョンソン民主党政権が(ギリシアの軍事政権樹立の際に)名目的に行った重武器禁輸もニクソン共和党政権に至って撤廃された。アメリカは67年に起こったアラブ諸国とイスラエルの「6日戦争」や、71年のリビアの新米政権転覆といった危機を打開するために(東地中海の要衝たる)ギリシアにおける軍事基地設置を望んでおり、72年9月にはギリシアに米第6艦隊の母港が設定された。

 ところが、そういった政治的な面はともかく、道義的な面ではギリシア独裁政権は内外の世論の支持を失う一方であった。独裁政権は有給密告者10万人(バルカン現代史)という諜報網を布いて特に共産主義者を弾圧し、その拷問の実態が知れ渡るにつれて人々の信望はますます失われた。アメリカでも71年に下院が再度の対ギリシア武器禁輸を可決し(註1)、北欧諸国やオランダの政府が公然たる批判を行った。首相パパドロプスの政治は次第に恣意的なものになり、かつての同志たちを退けて自分1人が防衛・外務・教育等の大臣職を兼務した。73年5月、海軍の一部が反乱を起こしてすぐに鎮圧されたが、パパドロプスは現在ローマに亡命中の国王コンスタンディノス2世との関係を疑い、7月29日をもって王制を廃止、自分を大統領とする共和制の樹立を宣言した。

 註1 ニクソン大統領が「国家的利益」のために拒否した。

 11月、アテネ工科大学の学生が座り込みデモを行った。16〜17日の夜、戦車隊の援護を受けた武装警察が突入して数十人が死亡する大惨事となり、これまでパパドロプス独裁政権を助けてきた軍部の中にもさすがに幻滅する者が現れた。が、それはあくまでパパドロプス個人に対する反発にとどまった。

 11月25日、軍事治安警察長官ディミトリオス・イオアニディス准将がクーデターを決行し、パパドロプスを解任した。しかしこれは軍の内部抗争という以外の、何の意味も持たなかった。イオアニディス新体制はパパドロプス以上の強圧的な政治を行い、全土に戒厳令を布告した。アメリカはあいもかわらず軍事政権に肩入れしたが、翌74年3月にイギリスで成立した労働党政権は明確にギリシア政府を批判した。同時期に起こった「オイル・ショック」もギリシア経済を直撃した。民衆の目を国内問題からそらすために他国に対して強硬手段をとるという、ギリシア近現代史において何度も繰り返されてきた愚行がここでも行われることになる。

   

   三たびキプロス紛争   目次に戻る

 その舞台はよりにもよって、いや、軍事政権としては最高の劇的効果を狙って、キプロス島が選ばれた。キプロス共和国大統領マカリオスはギリシア系でありながらもギリシアの軍事政権には否定的見解を示しており、ギリシア軍事政権は彼を暗殺することによってキプロス全土を本国に併合しようと考えたのである。

 7月15日、マカリオス大統領の公邸が襲撃された。マカリオスはすんでの所で難を逃れた。犯人はかつてマカリオスを助けてイギリス軍やトルコ系住民の武装組織と戦ったEOKAの一部を再編した「EOKA一B」と呼ばれる組織で、キプロス軍内部のギリシア系将校とも連絡をとっていた。7月20日、トルコ軍がトルコ系住民の保護を目的として島の北部に上陸した。トルコ・ギリシア関係は少し前にエーゲ海で発見された石油の採掘権をめぐって対立を深めており、今回の軍事介入は数ヵ月も前から準備されたものであった(近代ギリシァ史)。

 ギリシア軍事政権も動員を下令した。ギリシアとトルコは戦争寸前の状態となった。ところが、ギリシア軍の指揮官の多くは命令を拒否し、部隊は収拾のつかない大混乱に陥った。23日、軍事政権は作戦行動を停止した。

 キプロス紛争は軍事政権に対するとどめの一撃となった。勢いを取り戻した旧政党の年長者が軍の一部と話し合いを持ち、独裁政治の解体と文民政府の復活を右派の練達政治家コンスタンディノス・カラマンリスに求めることにした。カラマンリスは55年にパパゴス元帥の死を受けて首相に就任し、経済復興やキプロス問題の解決に尽力、63年の総選挙でパパンドレウーに敗れた後はパリに隠居していたのである。

 要請を受けたカラマンリスはただちに故国ギリシアに帰還した。熱狂的な歓呼の中、首相就任を宣言したのは今回のキプロス紛争が勃発してから10日もたたない24日の午前4時、国民の圧倒的支持のもとに11年ぶりの復帰を果たした彼の前には難問が山積みであり、またそれ故にこそ政界最長老たる彼の帰還が望まれたのである。

 カラマンリスは「国王」を「大統領」に書き換えた上で憲政を復活し(国体に関してはまだ国民の承認を得ていない)、さらに全ての政治犯を釈放、共産党を合法化した。後者は47年以来のことであった。

 一時停止していたキプロスのトルコ軍は8月14日に再び進撃を始め、島面積のほぼ40%を占領した。これは当初から島の「分割」を主張していたトルコ系住民の勝利といえるもので、ギリシア軍事政権の冒険は自らの倒壊とギリシア系キプロス島民の行方不明者1600人という一方的打撃によって幕を閉じたのである。

   

   共和制の確立   目次に戻る

 今に続くキプロス問題はこの時以来膠着状態に入ったままであるが、紛争は別の所にも飛び火した。ギリシア国民は、紛争に関してアメリカがトルコに味方していると信じ込み、アメリカが島へのトルコ軍の侵攻に関して何の動きも見せなかったことに強く憤った。さらにアメリカが軍事政権に肩入れしてきたことも手伝って、ギリシア国民の反米感情は爆発寸前のものとなった。8月に亡命先から帰国してきたアンドレアス・パパンドレウー(註1)は「全ギリシア社会主義者運動(以後「パソック」と記す)」なる非マルクス主義左派政党を組織してアメリカ・NATO(註2)との絶縁を訴えた。総選挙、及び王制廃止に関する国民投票の実施も発表された。

 註1  息子の方です。親父は既に死んでます。念のため。

 註2 「北大西洋条約機構」の略称。ソ連に対抗して米英を中心に結成された集団安全保障体制。49年に結成された。ギリシアの加盟は52年。

 11月17日、10年ぶりの総選挙が行われ、かつての急進国民連合を再編したカラマンリス派「新民主主義党」が得票率54%、議席は300中220議席という大勝をおさめた。これはまあ当然の結果で、パパンドレウーのパソックは13%で12議席、共産党は10%は8議席、残り60議席は中道派の中央同盟であるが、大パパンドレウーに指導されていた頃からの凋落は明らかであった。

 その1ヵ月後、今度は王制の有無を問う国民投票が行われた。結果は69%で共和派の勝利であった。ギリシアは正式に王制を廃し、現在に至るまで共和政体を続けている。今回の投票に際しては、中道派と左派は国王の帰国に反対し、保守(本来は王党派)のカラマンリスは沈黙を守っていた。カラマンリスが王制支持にまわればそちらの優位も見込めたが、63年に首相を退いた最大の原因が王室との衝突にあったことを考えれば、カラマンリスの態度も大いにうなずけるものがあった(近代ギリシァ史)。

 年末、新憲法が発布され、大統領にはカラマンリスの古くからの友人であるコンスタンディノス・ツァツォス教授が就任した。国防相には保守・反共のエヴァンゲロス・アヴェロフを任命して軍の保守派を安心させ(ギリシャ近現代史)、その上で軍事独裁の後始末にとりかかった。軍事政権の首謀者だったパパドロプス大佐等3人は死刑、それを覆してキプロスで破滅したイオアニディス准将には終身刑が宣告された。特にイオアニディスには様々な罪状から7回も終身刑を宣告されるという念の入れようであった。ただし、死刑判決を受けた3人はただちに終身禁錮に減刑され、それは陸軍の志気を維持するために必要であると説明された。

 カラマンリス首相の努力の大半は対外関係に向けられていた。最大の懸案はいうまでもなくトルコで、キプロスに展開する大兵力を撤収させる気配は全く感じられなかった。現地での流血沙汰は一旦は停止していたが、これはギリシアのEC加盟問題(註3)に際して諸国の不興を買わないようにするためのものであった(近代ギリシァ史)。エーゲ海も問題であった。エーゲ海の島々はその大半がギリシア領であり、国際法の通常の解釈では「エーゲ海=ギリシアの海」となるが、トルコはエーゲ海に限っては例外であると主張した。その底に油田があるからである。76年の夏にはトルコは係争海域に調査船を送り込むという挑発的な態度を示し、この時は大事に至らなかったものの、野党パソックのパパンドレウーはこれを撃沈することが唯一の解決法だと訴えた。ギリシアはトルコに隣接する島々の軍備を強化し、財政に必要以上の負担を強いなければならなかった(それはトルコも同じであった)。

 註3 「ヨーロッパ共同体」の略称。アメリカ・ソ連に対抗してヨーロッパの政治・経済統合を目指す。その前身となった「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」は57年の創設。当初の加盟国はフランス・イタリア・西ドイツ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの6ヵ国であった。

 それからEC加盟問題であった。前述のようにキプロス問題を抱えるギリシアの加盟は簡単には実現出来ず、まずは国内の経済・社会を「必要ならば力づくで」近代化することによってEC諸国の同意を得ようと努力した。国営航空会社や石油精製所の民営化、銀行への統制、選挙権獲得年齢の引き下げ、女性の社会的地位の向上等が急がれ、79年には2年後(81年)の正式加盟が約束されるに至った。

 その前の77年11月、以上の問題に際し、国民の新たな負託を受けた政府再編が必要であると考えたカラマンリスは議会の早期解散を行い、総選挙に訴えた。結果は新たなカラマンリス派「新民主主義党」が42%の得票で議席の過半数(300中172)を確保したものの、パパンドレウーのパソックも前回の14%から25%に増やして92議席を獲得した。パパンドレウーは労働者の高度な参加に基づく基幹産業の社会主義化や現代的な福祉国家の建設を掲げ、さらにトルコ及びそれを後援するアメリカ(註4)に強硬な態度を示すことによって多くの票を集めた。パパンドレウーはEC加盟にも否定的で、積極派のカラマンリスの「ギリシアは西洋に属している」に対して「ギリシアはギリシア人のものである」との民族主義を強調した。

 註4 アメリカは、ギリシアよりもトルコの方が戦略的に重要であると考えていた。少なくともギリシア側の印象はそうであった。

 80年5月、カラマンリスは大統領選挙に勝利し、首相にはカラマンリスと同じ「新民主主義党」のイオルギオス・ラリスが就任した。カラマンリス大統領に議会における信任は最少必要数180より3票多いだけというきわどいもので、政敵パパンドレウーはそれまでの社会主義的な綱領を低めることによって保守層への浸透をはかっていた。なんといっても、経済活動を行うギリシア人のうち6割は自営業者で、給与生活者(社会主義に熱心になりそうな階層)は4割にすぎないのである(ギリシャ近現代史)。

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