第2部その1

   

   ギリシア人の定義   目次に戻る

 1833年2月、バイエルンからオットー王子が到着し、初代ギリシア国王オトンとして即位した。彼はまだ17歳であったので、バイエルンから3人の摂政と、3500人の義勇兵がおまけとして付き従ってきた。憲法制定も約束された。

 王国の前途は多難であった。まず、独立ギリシアの人口は全ギリシア人人口(後述する)の3分の1程度であり、テッサロニキやスミルナ、エーゲ海の島々といった要地の多くはオスマン領に留まっていた。これらすべてを統一せんとの「メガリ・イデア(大いなる理想)」が以後長らく唱えられていく。

 ところが……具体的な問題点はおいおい述べていくが……肝心要の「ギリシア人」なるものの定義は実に非常にあやふやなものなのであった。これは本稿でも既に述べてきたように、18世紀以降の「ギリシア人」なる概念が外部から移入されたものであり、ギリシアの実情に必ずしも一致しないところから起こった問題である。

 「民族」というものを定義するならば、それは「文化と歴史を共有することによって共有のアイデンティティと一体性の感情を持つに至った人間集団(オスマン帝国の解体)」以外にありえない。ここでもう少しその「民族」というものを考えてみよう。

 上述の定義に基づく「民族」というものは古くから存在する。古代からある「○○人」というものがそれである(「○○に住んでいる人」という意味もある)。これを凝固剤もしくは基盤として、独立した主権を持つ政府、その主権が独占的に行使される領土、同じく国民(政治における主体的構成員)によって形成される「近代国家」を持とうとするのが近代における「民族主義」である。西欧(特にフランス)において早くから成立した「近代国家」も当然民族(文化的均一性)の上に立つものであり、西欧以外の地域が近代国家を建設しようとする際も、これも当然のこととして、古くからの文化的、もしくは政治的なまとまりを保持してきた「民族」を基盤にすえようとする。その「民族性」とは他民族との差異を認識することによって成立するものであり、なおかつ「近代国家」が民族を基盤とする以上、それはどうしても他民族に対する排他性を内包することになるのである(全部がそうなるとは言わないが)。(『オスマン帝国の解体』他を参考とした)

 ギリシアではどうか? とりあえず誰もが納得する「ギリシア語を話すキリスト教徒=ギリシア人」という定義を用いればそれだけで大問題が出来する。そこからは当然ギリシア王国の外にいる「ギリシア人」を全部統合しようという考えが生まれるからである。たしかにそうでなければ独立戦争を起こした意味がなく、現実に王国の領土は不愉快なほど限られたものであった。ギリシア語を話しキリスト教を信じる明らかなギリシア人が国外に多数存在する以上、その統合を目指すのはそれほど無体な話ではないようにも見える。だが、宗教的に寛容である上に民族の違いをさほど意識しなかったオスマン帝国においては各民族は判別のつかないほど入組んで暮らしており、住民の多数がギリシア人だったとしても、その他の明らかな非ギリシア人(非キリスト教徒か非ギリシア語話者、もしくはその両方)の扱いが問題になってくる。そこで近代ギリシアの指導者たちは、自分が「ギリシア人の居住地(ギリシアの固有の領土)である」と主張する地域の住民を、たとえそれがギリシア語を解さない人々であったとしても、「ギリシア語を忘れたギリシア人」と強引に解釈することとなるのである(具体例は後述する)。そしてその根拠は「彼等は東方正教会の信徒である」であるという所に存在し(註1)た。

 註1 そしてしまいには、イスラム教を信じる人をも、「たまたまイスラム教に改宗したギリシア人がいるだけだ」と考えるようになる。後述する。

 最初は「古典古代(キリスト教以前)の直系」たることを強調した指導者たちは、次第にキリスト教国家「ビザンティン帝国」へとそのアイデンティティの拠り所をシフトしていくことになる(ギリシャ近現代史)が、これは「ビザンティン帝国の復興」という領土拡張策の正当化というだけではなく、むしろ一般大衆の心情を代弁する形をとるものと言えた。2000年も昔からキリスト教徒であり続けたギリシア人にとって、その帰属意識が東方正教会にあるのは当然で、ビザンティン帝国はその東方正教会を国教として栄えた国なのである。これも何度も言っているとおり、オスマン時代の「ギリシア人」は自分たちが「古典古代直系」などとは考えていなかったのである。「古典古代直系」という看板を背負うことによってヨーロッパの国際政治に復活を果たしたギリシア人は、実は人種的にも精神的にも古代とはほとんど無関係である。(註2)また、近代ギリシア人が誇りをもって回想する「ビザンティン帝国」ですらも数百年も昔の話である。それらの「過去の栄光」を根拠として領土を拡大しようとするのは他民族にとっては迷惑以外の何者でもない(註3)が、しかし古典古代からの遺産である「ギリシア語」とビザンティンの「東方正教」はギリシア王国の外にも確実に生きており、近代国家の建設が民族意識(それはたやすく他民族に対する排他性に転化する)を基礎とするものである以上、オスマン帝国の統治下で伝統的に多言語・多宗教の世界であったバルカン半島・アナトリア(小アジア)(註4)において波乱を巻き起こすのは必然ともいい得るものであり、そこに政治的利害が絡むことによって大変な悲劇が出来することになるのである。

 註2 もともと古代のバルカン半島にはギリシア人・イリリア人・トラキア人等が住んでいた。しかし4〜10世紀にかけて北から「スラブ人」が移住してきて先住諸民族と混合していったのである。もちろん(古代の)ギリシア人もスラブ人と混血している。スラブ人の中でバルカン北西部に落ち着いた集団のうちカトリックを受け入れたのが「クロアチア人」、東方正教会を受け入れたのが「セルビア人」で、この2つは言語がほぼ同じである。両者ともそれぞれ強大な王国を建設したが、クロアチア王国は1102年に王位をハンガリー王に奪われ、16世紀にはオーストリアの下に属することとなった。セルビア王国は1389年の「コソヴォの戦い」でオスマン軍に敗れ、15世紀中頃完全にその属国となった。一方(話を戻して)、バルカン東南部に住み着いていたスラブ人集団は5世紀に東北からバルカンに侵入してきた遊牧民族「ブルガール人」の支配下におかれたが、ブルガール人の方が少数であったことからスラブ化してしまう。その、ブルガール人とスラブ人の国が「ブルガリア」である。一時は強大な帝国を建設するが1393年にオスマン帝国に滅ぼされた。セルビア・クロアチア人とブルガリア人は言語が近く、近代には合同で国家をつくろうとの試みもなされたが、それぞれにかつて強大な王国を築いた記憶が強く、結局は物別れに終っている。バルカンの非スラブ民族としては「ルーマニア人」と「アルバニア人」がいる。ルーマニア人は紀元前8世紀からバルカン北部に居住していた「ダキア人」とローマ人の混血とされ、アルバニア人は「古代イリリア人の子孫」を名乗っている。(これら以外の少数民族もいます)

 註3 当然のことだが、他民族、つまりブルガリア人やセルビア人の指導者たちもそれぞれの民族意識を強調する。彼等もギリシア人と同じような「過去の栄光」を持っている。

 註4 現在トルコ共和国の所在する巨大な半島。

   

   バイエルン王家   目次に戻る

 抽象的な議論や王国の外の話はともかくとして、とりあえずは現実的な問題を解決する必要がある。しかし、バイエルン人の摂政はギリシア古来の慣習を無視した法体系を導入し、省庁や軍隊の要職を手放そうとはしなかった。独立戦争で活躍した武将たちの多くはバイエルン人指揮下の軍隊に入れてもらえなかったために山賊稼業にもどってしまい、オスマン帝国との国境地帯は不安定で小競り合いが絶えなかった。かような山賊の跳梁は19世紀を通じてやむことがなかったが、ギリシア・オスマン関係が悪化すると彼等は国境のむこうでトラブルを起こす「不正規軍」の役目を与えられ、政治家が選挙の際に対立候補の支持者を脅かす道具になることも多かった(ギリシャ近現代史)。かような問題はバイエルン人のせいだけではなく、独立後に他国から「帰還」してきたギリシア人の多くが要職を得たことにも起因していた。これは彼等が高い教育を受けていたからなのだが(前掲書)、 やはり地元の人間には不愉快の種であった。(註1)

 註1 また、列強からの借款の利払いと軍事費をまかなうためにオスマン時代より重い税金が課されたため、オスマン帝国支配地域に逃亡する者が少なくなかった。(バルカン現代史他)

 それから、国王オトンが東方正教会ではなくローマ・カトリックの信者であることも大問題だった。オトンを力づくで改宗させるか、正教徒の新しい国王を迎える「フィルオルソドクス(親正教)」の陰謀が巡らされた。しかしオトンは改宗に応じなかったし、正教の国王に相応しい人物を提供出来るのは(この頃ギリシア以外で唯一の正教の独立国たる)ロシア以外にはなかったので、(オトン即位の経緯からして)それは肝心のロシアが同意してくれるはずがなかった。

 しかも、独立の際に約束されていた憲法は、10年たってもまだ実現しなかった。立憲主義者は上に述べたフィルオルソドクスの連中と手を結ぶことを思い立ち、1843年9月3日をもって実力行使に出た。国王はバイエルン人顧問を解任し、憲法制定及び議会招集に同意した。しかし、このクーデターの結果王国の首相となった最初の6人はみな独立戦争時の指導者ではあったが、これは王国の支配者がバイエルン人からギリシア人特権層にかわっただけの話で、彼等は自分たちがその創設に尽力した憲法の保持にもほとんど関心がなかった(近代ギリシァ史)。

 数百年もオスマン帝国の支配下におかれていたギリシア人はルネサンスとも市民革命とも無縁であり、つまり彼等の伝統的な価値観は西欧のそれと大きく隔たっていた(ギリシャ近現代史)(註2)。具体例をあげて説明すれば、オスマン時代においては法よりも権力者の恣意によって政策が決ることが多かったため、ギリシア人も権力者の庇護を取り付けることを重視するようになったということがあげられる。議会開設後は議員がその役割を受け継ぎ、選挙民に対し票の見返りとしての就職斡旋を行ったのである(ギリシャ近現代史)。伝統といえば農村の暮らしぶりも似たようなもので、それまでのイスラム教徒地主がギリシア人(東方正教徒)地主にかわっただけで、農業技術も以前のままであった(バルカン現代史)。

 註2 東方正教会が西欧の価値観を敵視していたという事情のある。

 次に、宗教上の問題があった。独立戦争以来、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルに置かれていた東方正教会の世界総主教座と、在ギリシアの聖職者との関係が切れていたのである。一応33年に「独立教会(ギリシア正教会)」として分離を宣言していたが、ロシア皇帝の仲介による交渉が長々と行われ、1850年をもって、アテネ大主教を議長とする自主独立の教会「ギリシア正教会」として認められたのであった。

 

 1853年、クリミア半島を主な舞台とするロシアとオスマン帝国の戦争、世にいう「クリミア戦争」が始まった。ギリシアはオスマン領内のギリシア人地区の「解放」、すなわち「メガリ・イデア」の好機到来とばかり、熱心にロシアに加担した。宣戦布告こそなされなかったものの、その「不正規軍」は国境を越えてオスマン領内へと進撃した。政府は「不正規軍」との関係を否定していたが、もちろんそんなのは嘘であった。しかしながらこの戦争ではイギリス・フランス・サルディニアがオスマン帝国に味方したためにロシアの方が苦戦に追い込まれ、ギリシアの「不正規軍」もオスマン軍に敗れさってしまった。戦争最中の54年5月から57年2月、英仏軍がアテネの外港ピレウスを占領し、ギリシア政府を脅迫した。

 かような内政干渉は以前も以後も何度も行われた。「本当に独立したギリシアなどというものは馬鹿げている。ギリシアはイギリスかロシアのどちらかでありうる。ギリシアがロシアに属するのが許されない以上、ギリシアはイギリスでなければならない」。第二次世界大戦後に至るまで、ギリシアの政策は列強の思惑につよく左右されることとなる。近代国家の基盤である民族意識は、ギリシアにおいてもかような大国の横暴に対応する形でますます激しいものとなり(近代ギリシァ史)、それに同調した国王オトンの人気も急上昇した。

 59年、オーストリアとサルディニアが戦争を起こした。サルディニアはイタリア統一を目指しており、北イタリアを領有するオーストリアはつまりイタリア人の民族意識を逆撫でする存在なのであった。激しい民族意識を持つギリシア人の多くはサルディニアを支持したが、国王オトンはオーストリアを支持し、せっかくの人気を大幅に落してしまった。クリミア戦争のせいでイギリスとの関係は冷えており(バルカン現代史)、政界における世代交代を認めなかったことから(近代ギリシァ史)国王への支持はますます損なわれていた。

 という訳で62年10月、アテネ駐屯部隊が反乱を起こし、オトンに退位を強要した。オトンはイギリス艦で故郷に戻った。在位30年、バイエルン王朝は一代で潰えた。最後まで正教に改宗しなかったが、ギリシア文化への愛着は本物で、そのことは5年後に亡くなるまで言明していた。

   

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 次の国王を誰にするか。冷静に考えて、ギリシアの保護者は地中海の雄イギリス以外にはありえない(近代ギリシァ史)、と考えたギリシア人は(イギリスの)ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子を選出したが、列強はオトン擁立の時と同じく、自らの王家から人を出さないことを確認した。イギリス政府はあれこれ考えた末にデンマーク王の次男ウィリアム・ゲオルグを推薦し、ギリシア側の評決によって「ゲオルギオス1世」として即位する運びとなった。イギリスは新王即位の引き出物として1809年以来占領していたイオニア諸島をプレゼントした(註1)。領土が増えたのは独立以来初めてのことである。

 註1 この頃にはイオニア諸島の戦略的重要性が低下していたのである(近代ギリシァ史)。また、後に日本に帰化して小泉八雲を名乗るラフカディオ・ハーンはこのイオニア諸島の出身である。彼の父はイギリス軍の軍医、母は現地のギリシア人であった。

 18歳の国王はなかなかに開明的であった。63年3月に即位してすぐに新憲法の制作にハッパをかけ、2年足らずで完成に漕ぎ着けることが出来た。これは当時のヨーロッパでは最も民主的な憲法のひとつ(近代ギリシァ史)とされ、国王の権限は強力ではあるが大臣たちの助言と署名なしには行為しえない、一院制の議会は直接・秘密の男子普通選挙によって選出される、代議士は国家を代表すべきであって選挙区を代表すべきではない、等々が明記されていた。しかし本質的な変化は乏しいものであった。政策よりも個人的な利益誘導が優先され、政権がかわるごとに支持者への公共事業の割り当てが増減することから選挙戦は手荒なもので、代議士たちは支持者の要求を満たすためにはなんとしてでも権力をその手におさめねばならず(ギリシャ近現代史)、激しい政争のため短期間に多くの政府が交替した(註2)

 註2 1864〜1910年の間に、58の内閣が交替した。

 75年、議会において最大の支持を集めたものが政権を持つべきとの「議院内閣制」が確認され、カリラオス・トリクゥピスとテオドロス・デリイアニスがそれぞれ率いる2大政党時代が現出した。トリクゥピスは保護関税制度・社会的産業的立法の整備といった近代化を熱心に押し進め、デリイアニスはとにかくトリクゥピスの政策に反対し、「メガリ・イデア」を声高に唱えることで有権者の支持を獲得した(近代ギリシァ史)。「メガリ・イデア」といえば、国王ゲオルギオス1世は「ヘレネス(ギリシア人)の王」を名乗っており、ここでいうヘレネスとはオスマン領に住むギリシア人(みずからをギリシア人と考える人、もしくは王国からギリシア人であると考えられている人)を含むととられていた。この頃のオスマン帝国はまだテッサリア・エピロス・クレタ島といったギリシア人地域を押さえており、他にも、ルーマニア人やセルビア人、ブルガリア人といった多くの民族をその支配のもとに繋ぎ止めていた(註3)

 註3 ルーマニアは16世紀以来オスマン帝国の支配下に置かれていたが、モルドヴァとワラキアという2つの公国としてある程度の自治は認められていた。クリミア戦争の後、列強の監督とオスマン帝国の宗主権(貢租をとる権利を持つ)下においてルーマニア人は2公国を合併して「ルーマニア自治公国」を建設した。セルビアは14世紀からオスマン支配を受け、19世紀初頭の反乱の結果1830年に「セルビア自治公国」として自治を獲得した。ブルガリアでの自治公国創設はさらに遅れて1878年である。

 1865〜67年、セルビア自治公国のミハイロ・オヴレノヴィチ大公の提唱により、セルビア・ルーマニア・モンテネグロ(註4)の自治公国、およびブルガリア革命協会とギリシアとが「バルカン同盟」を結成し、68年に一斉蜂起を行ってオスマン帝国の勢力を追放する密約をかわした。しかし各民族の利害はなかなか一致せず、そのうちに同盟の中心人物たるセルビアのミハイロ大公が国内の政敵に暗殺されたことから蜂起計画もうやむやになってしまった。

 註4 モンテネグロ(ツルナゴーラ)はセルビアと同語・同宗教の兄弟国であり、古くはセルビア王国に含まれていた。1355年にセルビア王ステファン・ドゥシャンが死んでセルビアが群雄割拠の状態になった際、現在のモンテネグロ地域は「ゼータ公国」を組織し、他のセルビア人地域がオスマン帝国に征服された後もここだけは峻険な山岳地帯に拠って独立を維持し続けた(貢納はした)。そのことがオスマン帝国・ロシアによって正式に認められたのが78年の「サン・ステファノ条約」である。ここはセルビアと同流ながらもあくまで違う国という強い意志を有して現在(2003年)に至っている。

 1877年、またロシアがオスマン帝国に宣戦し、「露土戦争」が始まった。ロシアは当初楽勝を見込んでいたが、プレブナ要塞の攻略に手間取ったことからギリシア等に援助を求めてきた(註5)。しかし、ギリシアが「オスマン帝国のギリシア人諸地方を占領する」決議を採択した時にはプレブナ要塞はロシアの名将トートレーベンの采配によって攻め落とされ(註6)ており、ギリシアが何もしないうちに戦争そのものが終結してしまった。

 註5 ルーマニアは当初からロシアに加担し、セルビアも遅れて参戦した。

 註6 トートレーベンは築城の専門家で、20年前の「クリミア戦争」の際にセヴァストーポリ要塞のロシア軍を監督した男である。クリミア戦争の時は要塞を守る方だったが、今回は攻める側としてその有能さを発揮したのである。

 78年3月、「サン・ステファノ条約」が結ばれた。まずルーマニア・セルビア・モンテネグロがオスマン帝国から完全独立し、ブルガリアを自治公国とするというものである。しかしこのブルガリアは現在のそれの2倍近い巨大なものであり、これらの諸国を通じてバルカン半島の全域にロシアの勢力が拡大されることが列強の警戒心を強めてしまった。しかも、この条約でブルガリアに約束された領土には、ギリシアが長年併合を望んでいた地方も含まれているのである。

 同年6〜7月、ドイツの主宰によるヨーロッパ諸国間の「ベルリン会議」が開催され、「サン・ステファノ条約」の見直しがはかられた。ルーマニア・セルビア・モンテネグロに関する(サン・ステファノ条約の)規定はそのまま、ブルガリアの1部は「ブルガリア自治公国(註7)」、1部は「東ルメリア半自治国(註8)」、残りはオスマン帝国直轄領に戻す、等々。ギリシアには、以前から領有を主張していたテッサリアとエピルス地方の問題を今後の交渉で取り決めるようオスマン帝国に「提案」する以外には、今後もオスマン領として残るクレタ島の管理を改革させるという程度に留まった。戦争で犠牲を払った訳ではないのだからこれでも儲けものだと思うが、ギリシア人の多く住むキプロス島が「オスマン帝国の主権下にイギリス軍が占領する」とされた(註9)のは痛かった。

 註7 大公が支配し、オスマン帝国に朝貢する義務を持つ。

 註8 オスマン政府が任命しヨーロッパ諸国が承認するキリスト教徒の知事によって統治される。ブルガリアも東ルメリアも同じブルガリア人の国である。

 註9 1914年に始まった第一次世界大戦に際してイギリスとオスマン帝国が敵対関係となったため、イギリスはキプロス島を正式に併合する。

 テッサリアとエピルスに関する問題は、その後2回の国際会議を経て、81年5月になってやっとテッサリアの大部分とエピルスのアルタ地区のみのギリシア帰属が決定された。ギリシア政府は以後経済政策に力を入れようとしたが、野党が引き続き対外膨張策を主張した。85年、ブルガリアが東ルメリアを併合した(註10)際、国民党のデリイアニスは「ブルガリア人がやるならギリシア人だってそうする」と唱えて政権を奪取し、エピルスの残りの地域を要求して軍隊を動員した。しかしヨーロッパの列強は各々の国力増進と安全のための現状維持をその外交政策の基本に据えており、最後通牒とイギリス艦隊(註11)による沿岸封鎖によってギリシアの野望を断念させた。

 註10 「ブルガリア事件」。85年に東ルメリアで革命が勃発し、臨時政府がブルガリアとの合併を宣言したのである。この問題では列強の意見も分裂したが、86年に攻め込んできたセルビア軍を撃退したことからブルガリアの立場が強化され、同年4月にブルガリア大公が東ルメリア知事を兼任することで決着した。ブルガリアがオスマン帝国への朝貢を断って完全な独立を手にしたのは1908年、後述する「青年トルコ党革命」の混乱に乗じてのものである。

 註11 この艦隊を率いていたのは、63年にギリシア王に擬せられたアルフレット王子その人であった。

 対外政策が失敗した上に、国内政治の方もやる気を削ぐことばかりであった。官僚と軍隊を維持するには莫大な経費が必要なのにもかかわらず、国内の貧しい農民からあがる税金はしれたものであり、93年には主要輸出品たる干しブドウが大暴落、国際金融市場からの高利の借金と相まって経済の破綻をもたらした。

   

   メガリ・イデア   目次に戻る

 かような国内矛盾が激化してくれば、その不満を性懲りもない対外膨張策によって反らそうとするのが為政者の常套手段である。96年、オスマン領のクレタ島で大規模な反乱が勃発した。この島の住民はキリスト教徒ギリシア人が多数を占めているにもかかわらず少数のイスラム教徒の圧制が激しく、弁護士エレフセリオス・ヴェニゼロス等を中心とする反乱軍は翌97年にはオスマン帝国からの独立宣言を発布してしまったのである。例によって列強は「現状維持」の名のもとにギリシアがクレタ反乱軍を援助するのを妨げようとしたが、ギリシア首相デリイアニスは激昂する世論に乗っかる形でオスマン帝国に宣戦を布告、「30日戦争」を開始した。しかしこれはどう見ても列強の思惑を無視するものであり、後述する「マケドニア問題」からセルビア・ブルガリアの支持を得ることも出来なかった。テッサリア地方のギリシア軍は、ドイツ士官の指導を受けるオスマン軍の前に連敗した。

 ただしクレタ島の方はうまくいった。クレタ島には早い段階で6ヶ国連合軍がただ流血を終結させるためだけに(近代ギリシァ史)派遣されており、98年にはオスマン軍を撤退させた上でのオスマン帝国の宗主権を認め、ギリシア国王の次男を高等弁務官とする自治体制が整えられた。しかしテッサリアの方はオスマン帝国に有利な形での国境の修正がなされ、さらに莫大な賠償金の支払いを義務付けられた。ギリシアの財政はさらに破壊的なものとなり、賠償金支払いを監督する列強の国際財政管理委員会が強力な内政干渉をおこなった。ギリシアの将来に絶望感を募らせた農民たちは、その多くが海外へと移民していった。1906〜14年に移民したギリシア人は、総人口の1割以上に達していたという。

   

   ヴェニゼロス登場   目次に戻る

 1908年、オスマン帝国で「青年トルコ党革命」が勃発した。青年トルコ党は帝国の弱体化を憂える知識人や青年将校によって1889年に結成された組織(正式名称「統一および進歩委員会」)である。彼等はテッサロニキの第3軍団の将校たちを中核として、1908年7月23日をもってコンスタンティノープルのオスマン政府に最後通牒を突き付け、翌日これを屈服せしめることに成功したのであった。

 この喜びは長くは続かなかった。まず10月5日、オスマン帝国の革命とその混乱を好機と見たブルガリア大公フェルディナントが、それまで続いていたオスマン帝国による宗主権を否定し、ブルガリア王国の完全独立(註1)を宣言した。これはオーストリアとも相談の上でのことであり、そのオーストリアは翌6日にこれもオスマン帝国の宗主権下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナ(註2)の併合を宣言したのである。

 註1 フェルデナントは最初「ブルガリアの皇帝」を名乗ったが、6ヵ月後に列強の承認を得た際に「国王」に格下げした。

 註2 1878年以来オーストリアの占領下に置かれていたが、オスマン帝国の宗主権は認めていた。

 8日、クレタ島のギリシア人がギリシア本国との合併を宣言した。これはオスマン帝国の、そしておそらく列強の怒りを買うこと必至と考えられた。ギリシア政府はクレタ併合宣言を躊躇った。クレタ島のギリシア人は勝手にギリシア国旗を掲げており、97年以来駐留していた列強の軍隊もすでに撤収していた。翌年5月、本国にて政府の弱腰に苛立った一部の軍人が「軍人連盟」を結成し、7月の決起をもって現政権を打倒した。このクーデターの主力となった将校たちの不満は第一に自分の取巻きばかりを贔屓する最高司令官コンスタンディノス皇太子に対するものであった(ギリシャ近現代史)のだが、彼等は政治家も信用しておらず、これまで中央の政界と無関係だったクレタ島の指導者エレフセリオス・ヴェニゼロスを首相に擁立することで決着をつけよう考えた。これは「軍人連盟」に反対する人々の目にも名案と写った(近代ギリシァ史)。

 ヴェニゼロスは本土に到着するや憲法改正のための国民議会招集を提案した。1910年8月の選挙はヴェニゼロス率いる自由党の大勝に終わり、軍人連盟も解散に同意した。9月に正式に首相に就任したヴェニゼロスは軍部の手先ではないことを示すため、先の軍人連盟のクーデターの際に退けられていたコンスタンディノス皇太子を要職に復職させ、その上で様々な改革に乗り出した。官吏のポストを公開試験で決定することで不正な公職斡旋を断ち、女性・子供の最低賃金制定、労働組合の制度化、教育は義務にして無料、公務員・軍人の政治的中立、農業省を設置して農業技術の改良をはかる、等々。30年ほど前から少しづつ増加しだした労働者の支持を確保したことがヴェニゼロスの政権安定に大きく貢献し(ギリシャ近現代史)て、ギリシアの財政収支はついに黒字に転換、その余剰予算をもっての陸海軍の近代化がはかられた。ヴェニゼロス派は1912年の選挙でも大勝した。(ヴェニゼロスの故郷クレタ島の併合を正式に宣言したのは12年10月18日)

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