第1部その2

   

   友愛会   目次に戻る

 オデッサ市の「友愛会(エテリア)」が結成されたのは1814年のことである。ただし彼等の目的は曖昧で、ギリシアをオスマン帝国の支配から解放する武装蜂起を行う一点では結束していたが、その後の新体制のあり方といったことはバラバラの考えが対立しており、指導者に擬せられたカポディーストリアスにも「自分が今仕えているロシア皇帝アレクサンドルは、いかなる革命蜂起にも反対だから」と断られ、逆にその無謀な計画を叱責される有り様であった。ロシア外務省の高官として列強との激しい外交戦に直接参画していたカポディーストリアスは、ギリシア独立の非現実性をよく理解しており、また、武装蜂起による問題の解決は決して将来のギリシア人のためにならないと訴えた。今はそれよりも、ギリシア人を独立国家(彼の理想では立憲国家)に相応しい水準に教育することが大事なのである。「ギリシア人は何よりもまず、道徳と学問に専念しなくてはならない。それ以外のいかなることに従事しても危険である」。

 20年4月、友愛会は28歳の青年貴族アレクサンドロス・イプシランディスを指導者に推戴した。彼は13歳からロシア軍に勤務し、ナポレオンとの戦いで片腕を失って、のちわずか24歳で少将になったという勇将である。しかし彼はロシア皇帝のお気に入りではあったが単純でお人好しなところがあり、はっきりいって政治的秘密結社の頭目にはむかない性格であった(ギリシア独立とカポディーストリアス)。

 それでも彼等は対オスマン武装蜂起の具体的な計画を練り始め、カポディーストリアスやロシア皇帝の知らないふり(註1)もあって20年の末頃にはロシア・オスマン帝国国境の町で作戦会議を実施するところまで漕ぎ着けた。ただし彼等の計画は他力本願なもので、とりあえずロシアとオスマン帝国の勢力伯仲地帯(註2)で騒乱を起こすことによってロシア軍の介入を期待するという所に作戦の主眼を置いていた。また、ギリシア人が反乱をおこせば、他の従属諸民族(ルーマニア人・ブルガリア人・セルビア人・アルバニア人等)も反オスマン帝国の旗をあげると思われた。

 註1 これについては諸説ある。

 註2 現在ルーマニアがある地域はこの時代ワラキアとモルドヴァという2つの自治公国があり、この2国はオスマン帝国の支配を受けてはいるが、オスマン軍の駐留は認められていなかった。そこでこの地で騒動を起こすことによってオスマン軍が進駐してくれば、それに対抗するロシア軍も動いてくれる、という甘い考え。

   

   イプシランディスの決起   目次に戻る

 この年12月、ギリシア北西部の豪族アリ・パシャがオスマン帝国に対し反乱をおこした。アリ・パシャの行動は別にギリシア人のためを思ってのことではなく(註1)、それどころか彼はギリシア人ではなくアルバニア人であったが、それでも友愛会の人々には絶好の好機到来と見えた。

 註1 オスマン帝国側がアリ・パシャの半独立状態を終わらせようとしたのである。

 「信仰と祖国のために戦え! 時は来れり、ギリシア人諸君よ! かねて以前より、ヨーロッパ諸国民は己の権利と自由のために戦い、我々にも模倣を呼びかけていた。我等が兄弟朋友は処々至る所で準備整いおれり、我等を待つ。されば、いざ我等とて情熱を燃やし、一致結束をば固めん。祖国は我等を呼び求めるなり。今こそ耐え難き軛を振り落とし、祖国を解放、雲上より半月(オスマン帝国のシンボル)を引きずり降ろして、それによりて我等常勝せし印、十字架を高く掲げるべき秋なり。かくして我等が祖国と正教の信仰をば、不敬の徒(イスラム教徒)の神を畏れぬ侮辱から護り、報復すべし。武器をとれ。いざ友よ。祖国は我等を呼び求むるなり!」1821年2月23日、アレクサンドロス・イプシランディスとその一党が決起宣言を行った。オスマン領(モルドヴァ自治公国)に入ったイプシランディスは、ミルティアデス、テミストクレス、レオニダスといった古代ギリシアの英雄たちの英霊に祈り、ルーマニア人やセルビア人に共同戦線の結成を呼びかけた。ところが、セルビアに向けて放った密使はオスマン軍に捕えられ、ルーマニア人はむしろギリシア人を疑っていた。オスマン帝国内部の従属民族の中でギリシア人の占める地位は別格のものがあり、商業や海運の活動を通して支配層の中枢にまで食い込んでいた。特にルーマニアのオスマン属国(ワラキアとモルドヴァ)のポスポダル(君主のこと。世襲ではなく、任期3年ほどの官職)はほとんどギリシア人が独占していたことから、(ルーマニア人は)そのギリシア人の蜂起と聞いても共感するところがほとんどなかったのである。

 5月、オスマン軍3万が押し寄せてきた。6〜7000にすぎないイプシランディス軍は勇戦するも押しまくられた。ちょうど同じ頃ルーマニア人の方も(イプシランディスと全然関係なく)反乱を起こしていたが、その指導者ウラディミレスクははっきりとイプシランディス軍への協力を拒否していた。苦戦続きで疑心暗鬼にとらわれたイプシランディスはウラディミレスクを逮捕・処刑した。6月、イプシランディス軍はドレゲシャンの戦いで壊滅した。イプシランディスはオーストリア領に逃走し、そちらで客死したのであった。

 頼みのロシア軍は動かなかった。ロシア人は個人としてはイプシランディスに共感する者も多数いた。しかし今回の決起の直前の20年10月、ロシアの首都ペテルブルクで自由主義者の反乱がおこり、皇帝アレクサンドル1世は「革命」とか「蜂起」とかいうものに強い警戒心を抱くようになっていたのである(ギリシア独立とカポディーストリアス)

   

   ギリシア独立戦争   目次に戻る

 ところが、イプシランディスの決起とほぼ同時に、ギリシア本土の方でも大規模な反乱が勃発した。両者の連絡の有無は今日に至るまで謎のままであるが、現在(21世紀)のギリシア人は、北部アカイアのパトラ市にて「革命政府」が設立された3月25日を「国民の日(独立戦争記念日)」として祝っている(註1)

 註1 最近の研究では、その2日前にマニ地区のカラマタにて「メッシニア議会」が創設されていたことが明らかになっているという。

 ペロポネソス半島は年内にギリシア軍によってほぼ制圧された。この方面のオスマン軍は、少し前におこったアリ・パシャの反乱を討伐する(註2)ために出払っており、逆にギリシア軍の方にエーゲ海の島々から大小約300隻の船団が参加してきたことが大きかった。

 註2 アリ・パシャはその後オスマン軍に降伏し、殺された。

 22年元旦、ピャタ村にて事実上のギリシア憲法たる「エピダウロス組織条例」が公布された。「身の毛もよだつ恐怖のオスマン帝国の支配下で大きな犠牲を支払ったギリシア民族は、先例なき苦しい専制に耐えきれず、今、国民集会に集まった合法的な代表者の名において、自分たちの政治的存在と独立性を獲得したことを宣言する」。信仰・出版の自由、市民の名誉・財産・安全の法による保証をうたい、臨時政府の所在地はコリント市に定められた。この頃のヨーロッパでは国王や皇帝の専制政治に反対する革命運動が盛んに行われ、各国政府の警戒が強まっていたが、ギリシア軍の指導者たちはそのような命運動と自分たちとは無関係であることを強調した。「オスマン帝国に対する我々の戦争は、扇動者に踊らされた爆発的原理、もしくは一部ギリシア人の利己的目的に基づいたものではない。これは国民的戦争、いうならば聖戦であり、人間の自由、財産及び名誉を求める我々の権利を復興するのが唯一の目的だ」。

 4月、オスマン軍がキオス島に上陸し、ギリシア人2万人を殺し4万人を奴隷として売り飛ばした。これは昨年10月にギリシア軍がトリポリスのイスラム教徒を略奪暴行したことへの報復であったが、オスマン軍の暴虐はフランスの画家ドラクロワの名画「キオスの虐殺」によって全ヨーロッパに伝えられ、多くの人々の憤激をひきおこした。6月、ギリシア艦隊がオスマン艦隊の旗艦をしとめ、7月にはアテネを占領した。ただしアテネのオスマン軍はアクロポリスに籠って抗戦を続け、それを包囲するギリシア軍の方も新手のオスマン軍に包囲されるという有り様であった。戦線は膠着状態に陥り、そうなれば数に優るオスマン軍の優勢は目に見えていた。

 しかしながらギリシア人には、全ヨーロッパの知識人たちという心強い味方が存在した。当時の西欧の知識人にとって、ギリシア人は古代の英雄たちの直系の子孫であり、オスマン軍の暴虐が伝わるにつれて各国から続々と義勇兵が参集した。ロマン派の詩人バイロン(註3)などはその代表格である。

 註3 ただしバイロンは戦う前に病死している。

 ところが、独立軍に参加するギリシア人たちの足並みは全然揃っていなかった。西欧で教育を受けた知識階級は西欧の近代的な体制をそのままギリシアに持ち込もうとしたが、教会の実力者や地主たちは(知識人からみれば)古い社会体制にしがみつき、ただオスマンの勢力を追い払うことだけを考えていた。また、エーゲ海の商人たちは商業上の利益を最優先し、山賊あがりの武将たちは「自分=法律」で、誰の命令にも従おうとはしなかった。ギリシアの国土は険しい山岳地帯によっていくつもの小世界にわかれており、それぞれが自分の利害を持たざるを得ないという地理的な問題もある(註4)

 註4 『ギリシアを知る事典』より。古代にはかような小世界ごとに都市国家が建設されたのである。

 という訳で、いったんオスマン軍の攻撃が和らぐと、ギリシア人は派閥抗争に血眼になり、血を見る争いに発展することも何度かあった。25年2月、オスマン帝国政府の要請を受け、エジプトの太守メフメット・アリ(註5)が強力な軍団を送りだした。エジプト軍はよく訓練されており、各地でギリシア軍を圧倒した。ギリシアの独立は風前のともしびとなった。

 註5 マケドニア出身のオスマン帝国の軍人。ナポレオンのエジプト遠征の時援軍を率いてエジプトにやってくるが、ナポレオンが引き揚げた後の混乱とオスマン帝国の弱体化に乗じて勢力を拡大、1806年からオスマン帝国の名目的な支配を受ける「エジプト太守」として半独立の王国を築く。

   

   各国の介入   目次に戻る

 

 理想に燃える知識人はともかくとして、ヨーロッパの各国政府はなかなかギリシア救援に動かなかった。もしどこかの国がギリシア救援に動けばそこからヨーロッパの安定が崩れ、結局は破滅の道をたどることになるだろう。オーストリア外相メッテルニヒは以上の思惑に立ち、特にロシアがギリシア問題に介入することを恐れていた。ロシアは伝統的にオスマン領に野心を持ち、これまで何度もオスマン帝国との戦争をおこなってきたのである。ギリシア問題の解決を口実するロシアの動きを何よりも警戒しなければならない。

 しかし23年8月、新しいイギリス外相としてジョージ・カニングが就任するあたりから風向きに変化が生じてくる。カニングは国内では選挙法改正(註1)に反対する保守派の大物(つまり反動的)で通っていたが、対外的にはギリシアの独立戦争に理解を示す(つまりリベラル)、「カニングの謎」と言われる奇妙な態度をとっていた。これはつまり、イギリス国内で選挙法改正を目指す産業ブルジョアジーの不満を、海外における新市場(産業ブルジョアジーの活躍の場)の開拓(ここでは新生ギリシアとの交易)というはけ口を与えることによって緩和するという高等戦術(ギリシア独立とカポディーストリアス)であったという。24年2月にはイギリスのロンゲ・オブライエン銀行が80万ポンドの借款を与えてギリシア軍を喜ばせたが、手数料・保険・利子分の天引き前払いのために、実際に手渡された額はたったの31万5000ポンドであったという(前掲書)から、世の中というのは理想とか綺麗ごとだけでは動かないものなのである。

 註1 イギリスでは19世紀初頭から都市部への人工集中がみられたが、選挙区は17世紀以来変化なしだったため、新興都市に代議士選出権がないのに、人口の激減した地方が地主の意志のみで代議士を選出するという不合理が見られた。そこで、後者すなわち「腐敗選挙区」を廃止し、それまでほとんど大地主に限られていた選挙権を新興都市の産業ブルジョアジーにまで拡大する「選挙法改正」が盛んに唱えられていた。今回外相となったカニングはこうした動きに絶対反対であった。

 もっともカニングは表面上はイギリス政府がギリシア問題に介入することを差し控え、25年7月にギリシア臨時政府が英仏露3国に資金的精神的援助を求めてきた「仲裁付託」も丁寧に断った。が、ギリシアのエジプト軍が「火と剣でギリシア人を皆殺しにし、エジプトの農民と入れ替えるつもりだ」という噂が流れるにつれてヨーロッパの一般世論がますますギリシア贔屓に傾き、26年4月4日をもってついにイギリス・ロシアによるギリシア介入が決定された。ただし武力の投入は交渉失敗の場合のみに限られ、もしロシア・オスマン戦争が起こった場合でもロシアはオスマン帝国を破壊しないこと等が約束された。カニングの奔走によるこの「ペテルブルク議定書」により、オーストリアもロシア一国の暴走が抑制されるとみて(前掲書)イギリスの支持にまわることにした。

 ところが、この年10月にトルコ・オスマン間に締結された「アッケルマン協定」は、ギリシア問題には全く触れず、ロシアによるオスマン領での利権獲得のみを取り決めていた。これはつまり、ギリシア独立戦争に苦しむオスマン帝国を脅して自国の利益を得ただけの話である。これにはオーストリアが激怒したが、イギリスは既にロシアに協調しており(ロシアの前進を認めることによって自国のギリシアでの利害をも認めさせようとしたのである)、フランスも英露との協調を望んでいた。オーストリアはかえって孤立した。ただし、ギリシア干渉に関する(英露仏3国間の)さらに具体的な取り決めが出来るのはそれから1年近くも先の話である。どの国も、どこか1国のみが突出して利益を得るのを恐れていた。ギリシア独立戦争の運命よりも、そこから派生する問題をどのように自国の利益に結び付け、なおかつそのことで他国と争わないようにするにはどうすればよいかが最も大きな争点なのであった。

 同じ頃、ギリシアの情勢はますます悲観的なものになっていた。26年4月に重要拠点メソロンギが陥落したが、ギリシア軍の指導者たちは責任のなすりあいを演じて2派に分裂するという有り様、分裂前の中央が招聘(個人的な来援)を依頼していたイギリス人の将官2人に「諸勢力の団結するならば招聘を受諾する」と言われてようやく志気を取り戻すことが出来た。リチャード・チャーチ将軍は根っからのギリシア贔屓、トマス・コクラン提督は金儲けが目当てであった(近代ギリシァ史)が、2人とも極めて有能な軍人として知られていた。

 翌27年3月、ギリシアの諸勢力がトロエゼンにて合同会議を開催した。ここで、予定どおりの2将官の招聘、新憲法の制定、そして元「イオニア七島連合共和国国務大臣」ヨアン・カポディーストリアス伯爵の大統領選出を取り決めた。

   

   カポディーストリアスの再登場   目次に戻る

 ロシア外務省の高級官僚だったカポディーストリアスは、ギリシア独立戦争勃発後、次第に保守的になってきたロシア皇帝アレクサンドル1世と意見があわなくなり、22年からスイスに引き蘢っていた。皇帝の慰留によってロシア官僚の肩書きだけは有していた彼は、すぐにはギリシアには向わなかった。新皇帝ニコライ1世に正式の辞表を提出した(註1)上で、まずは諸国の政治家・銀行家等に協力を頼んでまわる。辞表は彼の背後にロシア勢力が控えていないことを証明するためのものであり、ギリシア独立はイギリス・フランスその他からの平等な立場での援助によってこそなしとげられると考えたのである。

 註1 辞表は前年の末に提出していた。その後なかなか受理されず、大統領選出の知らせが届いてからも数ヵ月かかって7月に正式辞職した。

 同年7月6日、ようやくギリシア問題に関する3国(イギリス・ロシア・フランス)の考えがまとまった。この「ロンドン議定書」には、「ギリシアはオスマン帝国に貢納金をおさめる自治国となるのが望ましい」「それをオスマン政府が拒否した場合、3国はかまわずギリシアとの貿易関係樹立といった接近策をとる」「オスマン・ギリシアどちらかがこれを拒否した場合、3国連合艦隊の力による停戦の強制もありうる」等が記されていた。ただし、「英仏両国は軍事行動には参加しない」との矛盾した声明も発された。嫌な仕事はロシア一国のみに押付けようとの算段である(ギリシア独立とカポディーストリアス)。(カニングはこの後すぐに病死した)

第1部その1へ戻る

第1部その3へ進む

戻る