ドイツの植民地 第7部 陸の戦い

   サラエヴォの1発   目次に戻る 

 1914年6月28日、ボスニア州の首都サラエヴォでオーストリアの皇太子フランツ・フェルディナント大公がセルビア人の青年によって暗殺された。国内に多数のスラブ系少数民族を抱えるオーストリアにとって、2度のバルカン戦争を通じて強大化していたセルビアはなんとしてでも叩き伏せておきたい相手(実際にはセルビアは連戦で疲れていた)であり、皇太子暗殺を口実として戦争をふっかけようと考えたが、とりあえずは同盟国ドイツの意向をうかがうことにした。セルビアの背後にはロシアがいるからである。これに対してドイツはオーストリアという数少ない同盟国を助けてやらねばならない立場であったため、ロシアが介入してきたとしても何とか助けてやるから「できるだけ早い、断固とした行動」をとるよう促した。

 勢いに乗ったオーストリアはセルビアが絶対に受け入れられないような最後通牒を発してこれを挑発した。セルビア政府は通牒をほとんど受け入れると表明した(註1)のだが、とにかく何が何でもセルビアを叩きたがっていたオーストリアは7月28日をもってセルビアに対し宣戦を布告した。これに対抗してロシアが軍隊を部分動員したため、ドイツは「ロシアが部分動員をやめなければドイツも動員令を出す」という警告を発した。

註1 最後通牒の内容は……、「セルビア国内での一切の反オーストリア運動の禁止」「反オーストリア団体の解散」「反オーストリア的な教師の除去」「皇太子暗殺犯の背後にはセルビア軍の将校がいるから、そのような(セルビア領内における)背後関係の取り締まりにオーストリア機関を参加させるべし」等々であった。ここで問題になったのは「オーストリア機関を参加させるべし」という部分で、自国領内での司法活動に外国機関を関与させるというのは独立国としてとうてい受け入れられるものではないため、セルビア政府はこれについては難色を示したが、それ以外の要求にはほどんど同意を示した。


   対ロシア宣戦   
目次に戻る 

 ドイツ政府は、実のところ今回も1908年のボスニア問題の時みたいにロシア側の譲歩で終わるだろうと思っていたのだが、オーストリアがセルビアに突きつけた最後通牒の内容が予想以上に過激だったことに驚いた。まぁオーストリアとセルビアが戦争するだけなら構わないのだが、ロシアが動いたら困るので、ドイツ皇帝からロシア皇帝に対して自重を促す親書が送られた。しかし時すでに遅い。以前から早期開戦を唱えていた陸軍首脳部の要求を受けたドイツ政府はけっきょく対露戦争を決意するに至る。とはいってもこれは軍だけが悪いという訳ではなく、政界の方でもここしばらくの手詰まりによって無力感を抱いていたため、軍部の主張に安易に乗ってしまったという側面もあった(ブライアン・ボンド著『イギリスと第一次世界大戦』)。

 ロシア……1908年のボスニア問題で一方的に譲歩させられた屈辱が忘れられなかった……の方は、30日をもって部分動員から総動員へと切り替えた。ただ、ロシアはこの措置について相当に悩んでいた。ロシア皇帝と外相は部分動員で充分と考え、陸軍総参謀長は総動員が望ましいと主張して、最終的に後者の意見が通ったのである。しかしそれでもロシア皇帝は、動員イコール開戦という訳ではないという考えを公にした(http://ww1.m78.com/honbun/diplomacy.html)。つまり、オーストリアを脅すためだけの措置だったのである。

 しかしドイツ政府の方はロシアが総動員を発するより前の時点で開戦を決意しており、「ロシアの方が先に総動員をかけた(ロシアの方から仕掛けてきた)」という口実が出来るのを待っていた。その一方で、オーストリア政府の意向としては(セルビアを叩くつもりではいたが)ロシアまで敵に回すつもりはなかった(ドイツが抑えてくれると思っていた)のだが、いつの間にかとりかえしがつかないぐらいに話が進んでしまったのであった。

 そして8月1日、ドイツ政府は対ロシア宣戦布告を断行した。ドイツ国内においては社会民主党が戦争反対を唱えて反戦デモを開催していたが、3日には戦争支持に転換した。戦争に協力することで政府に対する党の影響力を強めようとしたのと、「この戦争はロシアに対する防衛のためのものである」という政府側のお題目に乗せられたからである。社会民主党(社会主義を掲げる進歩の党)は伝統的にロシア(後進的な皇帝専制国)が嫌いであった。その一方でロシアにおいてもプレハーノフやクロパトキンといった社会主義者が「野蛮なドイツの勝利はロシアの経済発展や人民の自由の事業を損なう」と唱えてロシアの勝利を祈っていたのだから何をかいわんやである。これに対して断固として戦争反対を訴えたのが後に「ロシア十月革命」を指導するレーニンなのだが、それについての詳しい話は
別稿に譲るとして……、

   対フランス宣戦   目次に戻る 

 ドイツ軍部は「シュリーフェン計画」を忠実に実行することにした。ロシアを叩く前にフランスを潰すというあの作戦である。と、そこに、イギリスから急使が飛び込んできた。ドイツがフランスを攻撃せずロシアのみ攻撃するならイギリスは中立を守るし、フランスにも中立を保つよう働きかけるというのである。フランスは有事に備えた作戦を用意してはいたがセルビア問題に関する当事者ではなかったし、フランス軍部も政府も一般世論も戦争が不可避であるなどとは思っていなかった(フランス史3)。イギリスからの申し出を受けたドイツ皇帝は陸軍参謀総長のモルトケに「西部(フランス)での攻撃を中止し東部(ロシア)に軍を集中出来ないか」と相談したが、返事は「そんなことをすれば総動員と全作戦は危殆に陥り、案山子の軍隊になる」というものであった。それに、イギリス政府は実は「ドイツがフランスを攻撃せずロシアのみ攻撃するなら」ではなく「ドイツがロシアを攻撃しないなら」と言っていたのが間違って伝えられたことが判明し、結局モルトケの意見が通ってしまった。

 フランスは8月1日のうちに総動員令を発した。しかしそれでもフランス首相ヴィヴィアーニとしては情況次第によっては戦争に巻込まれるのを回避出来るかもと思っていたのだが、ドイツ軍部の側はシュリーフェン計画以外のプランを用意しておらず、もはや独仏開戦は避けられなくなった。そして8月3日、ドイツはフランスに対し宣戦を布告した。フランスの労働運動の指導者レオン・ジュオーは「人権の守り手であるフランス共和国が民主主義の敵であるドイツやオーストリアの皇帝たちからの挑戦を受けて立っているのだ」と喧伝して戦争支持を訴えた。そのドイツ帝国よりも専制的なロシア帝国と同盟してるのはどういうこっちゃと突っ込みたくなるのだが、まあそれはいいとして……、実は「ドイツ皇帝の東部集中案は技術的に実施不可能ではなかった」とドイツ軍の鉄道軍事総監スターブが後に回想している(http://ww1.m78.com/honbun/diplomacy.html)。

   イギリスの参戦   
目次に戻る 

 シュリーフェン計画によればドイツ軍はフランスを叩いた次はロシアに向かうことになっていたので、それをやるためにはとにかく何としてでもフランス軍を極力短期間に(打撃を与えて退却させるとかその程度ではなく)徹底的に殲滅しておかねばならなかった(だから軍部は開戦を急いだのである)。そのためには相手の防備の薄いところを大軍団で一気に突破する必要があるのだが、ドイツとフランスの国境線には強力な防御が施されているにきまってるから、そこは避けて、北のベルギーを通るルートから防備の薄そうなフランス北部に雪崩れ込む(そして、独仏国境附近に展開しているフランス軍主力を背後から包み込んで殲滅する)という作戦が採用された。

 だが、ベルギーは中立国であった。8月4日にドイツ軍がベルギー領土への進撃を開始すると、「あわれな小国ベルギー」を救うためにイギリスが参戦してきた。実はイギリス政府としては7月の段階では自分が参戦する可能性は薄いと考えていた(ブライアン・ボンド著『イギリスと第一次世界大戦』)。前章で述べたようにアイルランド問題を抱えていたからである(ただし外相のグレイは早いうちから参戦を決意していた)。また、ドイツ側としても、フランス軍をごく短期間で粉砕出来るという自信があったため、イギリスが参戦してきたとしても大した問題にはならないと信じていた。イギリスは海軍に関してはドイツよりも強力であったが陸軍は貧弱だったため、ドイツ陸軍の快進撃を早急に食い止めたいと思ってもその手段がないだろうという訳である。しかし、いざドイツ軍が動き出し、ベルギーがイギリスに助けを求めてくるとイギリス政府の考えも変わり、反ドイツを訴える世論に押されたこともあって参戦を決意したのであった。もしここでベルギー・フランスを見捨てたりしたら、戦後に著しく強大化するであろうドイツに対してイギリスは太刀打ち出来なくなる……。

 まぁ動機はなんであれ、8月以降のイギリス世論は一気に戦争熱に浮かされ、ほんの少し前までロンドンで大規模な反戦集会を開いていた労働党の指導者たちまでもがほぼ全員戦争支持に乗り換えた。アイルランド問題については、この年の3月に議会を通過したアイルランド自治法案を政府が修正しようとしたことに対する反対運動が激化し、内乱寸前の状態となっていたのだが、政府は自治法の実施を戦争終結後に先送りすることによってとりあえずこの問題の凍結に成功した。それはともかく、ここしばらくのドイツでは海軍大拡張に代表される軍備増強を正当化するために民間の右翼団体が宣伝活動を繰り広げており、例えばスポーツの振興を通じて青少年を「未来の兵士」として鍛えたりしていたから、そういった「プロシア(ドイツ)の軍国主義を打倒せよ」というスローガンはイギリス世論を鼓舞するところ大であった。もっともイギリス政府としては、ドイツを海上封鎖しつつフランスに資金と弾薬を供給する以外には少数の派遣軍を送る程度で済ませるつもりでいたのだが(前掲書)。

 そういうイギリス政府の思惑は別として、イギリス国民もフランス国民もドイツ国民もロシア国民も、程度の差こそあれ戦争の遂行に協力する意向を示していた。愛国熱に突き動かされたのに加えて、どうせ短期間で終わると思っていたからである。ここしばらくドイツ対英仏露の対立とかが喧しくいわれていたとはいっても、それらの陣営の間の通商が遮断されていた訳では全くない(つまり経済的には相互依存の関係にあった)ので、それが完全にシャットアウトされてしまう状態(戦争)を長く続ける訳にはいかないのである。各国の軍部の首脳たちとしても、近代の戦争というものが激烈かつ破滅的なものであることを理解していたが故に、何としてでも短期決戦でかたをつけるつもりでいた。そのためには戦争の序盤で出来うる限りの大軍団を動員せねばならない訳だが、そのような大軍を長期に渡って維持し続けるような事態は物理的に(経済的に自殺行為なので)想定出来なかった。ドイツ軍の「シュリーフェン計画」にはそういう意図も盛り込まれていた訳だが、フランス軍もロシア軍も似たような作戦(戦争の序盤に大攻勢をかける)を想定していた。各国の軍部は、適度に多くの予算を獲得するため、あるいは高度に訓練された軍の価値を強調するために、シュリーフェン計画のような短期戦を狙った大攻勢計画(高度な訓練を受けた大量の人員と、そのための適度に多額の予算を必要とする)をぶちあげていたのだという説もある(ブライアン・ボンド著『イギリスと第一次世界大戦』)。

 ……と、こんな具合に、セルビアとオーストリアの紛争はみるみるうちに「第一次世界大戦」へと発展していった(註2)。ロシア軍の動員速度はドイツ側の予測を越えて早く、そちらへの兵力派遣を迫られたドイツは西部戦線(対フランス・ベルギー戦線)の兵力の一部を東に送って8月下旬の「タンネンベルクの戦い」でロシア軍を大破したが、その分だけ兵力が足りなくなった西部戦線の部隊は(ベルギー軍が想像以上の抵抗を示したこともあって)進撃の途中で息が切れてしまい、9月上旬に北フランスで発生した「マルヌの戦い」はフランス軍の勝利に終わった。

註2 オーストリアは8月6日になってやっとロシアに宣戦した。オーストリア政府としてはそういう事態は想定外だったのだが、もうそんな手前勝手なことを言っていられる情況ではなくなってしまったのである。


 そして、やがて戦局は膠着状態に陥り、いつ終わるともしれない塹壕に籠っての睨み合いに終始するようになってしまう。開戦時の各国の予想では、高い練度と志気を持つ歩兵部隊が強力な砲兵の援護のもとに突撃すればどんな堅い敵陣でも突破可能ということになっていた(日露戦争がそうだった)のだが、今回の戦争においては巧妙に構築された塹壕や有刺鉄線、機関銃によって守られた防御陣地を突破するのは(後述する青島要塞攻略のように敵味方の兵力差が大きい場合は別として)著しく困難であった。

 ……その辺の詳しい話をするのは別の機会に譲るとして、この辺で話の舞台を植民地に戻すことにする。

   アフリカの戦い   
目次に戻る 

 まずはアフリカである。ドイツ本国が勝利すれば戦後の植民地分割でカメルーンと東アフリカを繋ぐ地域を獲得出来るとかいう期待もあったが、各植民地はとりあえずは戦争に巻き込まれるのを回避しようとした。しかしアフリカのドイツ領で一番小さなトーゴは総督デーリンクの中立宣言にもかかわらず英仏軍に3方から攻略され、やむなく無線基地を破壊したうえで8月26日に降伏した。カメルーンの港湾は敵艦隊によって封鎖され、イギリス、フランス、それからベルギーの植民地軍が攻め入ってきた。カメルーンのドイツ植民地軍は本国の勝利に望みをかけてかなり粘ったが、16年2月には武器弾薬を使い果たし、中立国スペインの植民地リオ・ムニ(現在の赤道ギニア共和国)に撤収、そちらで武装を解除された。

 南西アフリカは南隣の南アフリカ連邦軍との戦闘に突入した。南アフリカはもともとはオランダの植民地だったがやがてイギリス領に組み込まれたという地域(イギリスの支配下に落ちたオランダ系入植者の不満は相当のものであった)で、1910年にイギリスの自治領として「南アフリカ連邦」を組織(註3)し、これが大戦勃発に際してイギリスの要請に従ってドイツとの戦いに参陣して来たのである(註4)。しかし9月末に南西アフリカに侵入しようとした南アフリカ連邦軍は国境近くで撃退され、さらにオランダ系入植者の一部がドイツ軍に連繋して反乱を起こすという事態に立ち至った。南アフリカ連邦は翌年初頭までかけて反乱を鎮圧したうえで改めて海陸から南西アフリカに侵攻、5月17日に首都ウィントフークを占領した。ドイツ軍はその後も植民地の北部に退いて抗戦を続けたが7月に至って降伏した。

註3 国家元首はイギリス国王だが、独自の憲法や議会を持つ、事実上の独立国である。

註4 イギリスが南アフリカに事実上の独立を与えたことをドイツは「イギリス帝国の解体」と見なしていたが、それは全然見当違いで、イギリスの他の自治領であるオーストラリアやニュージーランドもイギリスに促されるままに(あるいは自発的に)ドイツとの戦いに参戦してきた。これはドイツにとっては驚きであった。自治領諸国はこの戦争を近隣のドイツ植民地を奪取する絶好の機会と考えたようである。


 ドイツ植民地軍が最も粘ったのは東アフリカである。ここの総督シュネー博士も最初は戦闘を回避しようとしたが、イギリスはその優勢な海軍力をもって東アフリカの沿岸部を封鎖、植民地とドイツ本国との連絡を断ってしまった。しかし東アフリカのドイツ植民地軍を率いるレットウ・フォルベック将軍は本国の負担を軽減するために奮戦し、むしろ近隣の敵側植民地に対して攻勢に出た。しかし16年に入ると敵側に増援が到着、これに押される形で植民地の南部へと退いたドイツ軍はそこからさらにポルトガル領東アフリカ(註5)に入り、イギリス領のニヤサランド(現在のマラウイ)へと進撃したりした。敵味方の戦力は10倍以上開いていたが、けっきょく東アフリカのドイツ軍は大戦そのものが終わるまで降伏しなかった。(ドイツ軍の主力は現地で徴用した黒人兵であった。ドイツ軍が英雄的な戦闘を続ける、その巻き添えを食って多くの黒人の村や畑が破壊されてしまった)

註5 現在のモザンビークのこと。ポルトガルは当初中立であったが16年2月にイギリスの要請でドイツ商船を拿捕、翌月にドイツの方から宣戦布告となった。


 ちなみに、映画化もされたセシル・スコット・フォレスターの小説『アフリカの女王』はこの時の東アフリカの戦いを背景として描かれている。もうひとつ余談。東アフリカに対してはドイツ本国から飛行船を用いた補給が行われたことがある。その飛行船「L59」号はエッケナー船長の指揮下に17年11月21日に同盟国ブルガリア(註6)のヤンボイ基地を出撃、アフリカの地面から照り返す日差しや逆風に苦しみつつもナイル河に沿って南下、途中「植民地軍は降伏した。すぐ帰投せよ」との偽の無線連絡に騙されそうになったりしたが何とか現地に到達して武器弾薬や医療品の補給に成功した。飛行距離は6757キロ、95時間に及ぶ大飛行であった。

註6 1915年10月にドイツ側に立って参戦した。


   日本の参戦   
目次に戻る 

 それからアジアの戦いである。これについてだけは日本語の詳しい資料があるので日本側の視点で書く。

 1914年夏の大戦勃発に際し、中国のドイツ租借地膠州湾にいるドイツ東洋艦隊がアジアのイギリス植民地や通商路を脅かすことが確実であるため、イギリス政府は早くも8月7日に日本に参戦を求めてきた。イギリスと日本は1902年以来同盟関係にあったのだから当然の依頼である。しかし、絶対に参戦しなければならない情況が発生していた訳ではなかったし、その一方でドイツ側の青島(膠州湾租借地の中心の都市)総督は日本の陸軍がドイツ陸軍をお手本にしていたことから日本参戦の可能性は薄いと考えていた。それどころかドイツ本国では「日本がドイツ側に立って参戦してくれた」との誤報が飛び、ベルリン市民が日本大使館を囲んで万歳を叫ぶという事件まで発生した。(日本陸軍の指導者たちがドイツの影響を強く受けていたのは事実だが、その一方でイギリス陸軍とも普通に親しくしていた)

 もちろん帝国主義時代の国際政治はそんなに甘くはない。日本政府はイギリスからの要請があった翌日の8月8日未明の閣議でイギリス側に立っての参戦を実にあっさり決定した。ドイツの根拠地を東洋から一掃することによって国際社会における大日本帝国の地位を向上させる絶好の機会であるし、1895年の「三国干渉」に対する報復という意味合いもあった。イギリス政府は日本に対してドイツ艦船の撃破だけを期待していたのだが、日本政府はその程度で済ますつもりはなかった。

 それを聞いたイギリスは参戦要請を撤回すると言い出した。日本がこの機に乗じて中国大陸や太平洋に支配権を拡大したりするとイギリスの利害を損ないかねないからである。しかもイギリスは、日本軍がドサクサまぎれにアメリカやオランダといった中立国の領土を浸食するのではないかとすら思っていた(米や蘭からそういう危惧が寄せられていたと思われる)。これに対して日本政府は、仮に参戦取り消しに応じたとして、その話が外部に漏れたら日英同盟に対する一般の感情が悪化する、おかしな野心はないし、そのことを諸外国に対しても説明するから参戦させてくれと頼んでイギリスの了解をとりつけた。ちなみにロシアとフランスはイギリスほど身勝手ではなく、日本の参戦を強く期待していた。

 と、そんなやり取りを経た日本政府は8月15日をもってドイツ政府に対し最後通牒を送付した。要求は中国周辺海域からのドイツ艦艇の退去と、膠州湾租借地を中国に返還するために無償無条件で日本に引き渡すべきことの2項目である。期限は23日までであった。普通はもっと短い期限を設定するものだが、「日本はみだりに戦争を欲しない」というポーズを示したのである。

 ドイツ側は膠州湾の戦備を強化し、同地の日本人居留民に退去を命令した。23日、ドイツ側の返答がないまま最後通牒の期限が切れ、日本はドイツに対して宣戦を布告した。膠州湾にはドイツ軍だけでなくオーストリアの巡洋艦もいたのだが、オーストリアは(日墺間には特に係争材料はなかったのだが)27日に駐日大使を引きあげ、日本側も同じ行動をとって外交断絶となった。宣戦布告はなされなかったものの問題のオーストリア艦は最後まで膠州湾に残ってそちらの防御に参加したので、事実上の戦争状態に突入という訳である。日本の世論はわずかの例外を除いて戦争支持であったが、大蔵省では戦費の調達に苦慮したという。

   両軍の戦備   
目次に戻る 

 日本軍の目標は太平洋の赤道以北のドイツ領の島々(マーシャル、カロリン、マリアナ諸島)の攻略(註7)及びその付近にいるドイツ艦の撃破と、中国の膠州湾租借地の占領である。前者には海軍の第1艦隊(指揮官加藤友三郎中将)、後者には第2艦隊(指揮官加藤定吉中将)と陸軍部隊(指揮官神尾光臣中将)が投入されることとなった。膠州湾租借地の中心地である青島要塞の占領のために動員される陸軍部隊は久留米の第18師団と静岡の第29旅団、独立工兵第2聯隊、鉄道第1聯隊、独立攻城重砲兵第2大隊、さらに日本軍が初めて実戦に投入する航空部隊等々を含めて総勢約5万人と馬匹約1万2000、さらにお目付役(日本軍が無意味に戦域を拡大しないよう監視する役)のイギリス軍1390名(指揮官バナーテイストン少将)である。

註7 赤道以南のドイツ領の攻略はオーストラリア・ニュージーランド軍が担当。

 そして、宣戦布告から1週間も経たない8月28日、第18師団の先発隊として第24旅団(山田支隊)が長崎を出港、翌日には第2艦隊が膠州湾を封鎖した。青島を根拠地とするドイツ東洋艦隊はドイツ海軍が海外に擁する兵力としては最も強力なもので、1万トンを超える装甲巡洋艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」、後にインド洋での通商破壊活動に活躍する2等巡洋艦「エムデン」、オーストリア海軍所属の2等巡洋艦「カイザリン・エリザベート」等17隻4万5000トンを数えていた。ただしこの艦隊の主力は日独開戦の時点で既に外海に出払っており、膠州湾に残っていた艦艇は巡洋艦「カイザリン・エリザベート」と小型艦がいくらかのみであった。青島要塞の守備隊はわずか4920名、大砲が95門(ほとんど旧式)、機関砲30門、機関銃47挺であった(それと物資が半年分)から、勝敗は戦う前から完全に決まっていた。青島要塞のドイツ軍に出来ることといえば、ドイツ帝国軍人としての面子が守られる程度の抵抗を示したうえで降伏するだけである。ちなみにドイツ東洋艦隊は最初は(開戦前に立てていた計画では)フランス領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)を攻撃するつもりでいた(そちらのフランス海軍は駆逐艦2隻を基幹とする貧弱なものであった)のだが、日本海軍が参陣してくるとなるとこの構想は無理なので、南米経由で本国に帰ることにした。

   龍口上陸   
目次に戻る 

 9月2日、日本軍先発隊が山東半島の北端に近い龍口に上陸した。ここはドイツの租借地(山東半島の南部)から160キロも北に離れ、つまり中華民国(註8)領土を侵犯する形となってしまっていた。常識的に考えるなら青島のすぐ東の労山湾に上陸すべきだが、そこはドイツの自由使用地(膠州湾周辺50キロ)に含まれていることから機雷が敷設されており、時期的な気象の問題(季節風)もあって龍口が選ばれたのである。その龍口から第18師団主力が南下して2週間後には青島の北の即墨と北東の王哥荘を占領、それまでに海軍が労山湾を掃海し、その頃(9月18日頃)には季節風の向きが変わっている筈なので、即墨・王哥荘の陸軍の援護のもとに労山湾に重砲等の目方のある物資を陸揚げする、という計画であった。

註8 1912年に清国にとってかわって成立。第一次世界大戦に際してはとりあえず中立を宣言。


 そのような日本軍の作戦を予期していたドイツ側は前もって中国政府に対し外国軍の領土侵犯を禁止するよう要求していたが、イギリスが日本の肩を持ったことから中国政府は渋りつつも日本軍の行動を容認した。

 しかし日本軍が龍口に上陸した時は折悪しく記録的な暴風雨だったことから上陸作業に甚だしく手間を取り、そこからの進軍も100年に一度という大洪水が1週間続いたため極度に難航した。仕方ないので龍口上陸部隊の最後尾の部隊(第23旅団)を輸送船に戻して18日に労山湾(海軍が前日までに掃海完了していた)に上陸させ、わずかの戦闘の後に付近を占領した。こちら(労山湾)の天候は良好で、重砲の揚陸作業も順次行われ、イギリス軍も23日に上陸してきた。龍口から南下していた部隊(先頭は騎兵聯隊)は14日頃から順次即墨に到着、予定より1週間ほど遅れた25日には即墨での勢揃いを終えた。そこからさらに前進を続けた日本軍は、膠州湾に残存するドイツ・オーストリア艦の砲撃に苦しみつつも28日には青島要塞の前進陣地に到達した。とはいえ相手は堅固な要塞なのですぐには総攻撃に入らず、念入りな準備をすることにする。日本軍は10月中旬には山東鉄道を制圧(註9)、海上から封鎖する艦隊とで膠州湾の完全包囲を完了させた。しかし同月15〜16日にはまた暴風雨に見舞われて陣地や補給路が流出したりとなかなか大変である。

註9 山東鉄道(ドイツ資本で建設された鉄道)はドイツの自由使用地の外まで延びている。これを占領した日本軍は中国政府に抗議されたが、無視した。ちなみに山東鉄道は純然たる民間資本であってドイツ政府は株を所有しておらず、中国が警備を担当していた(http://www.lib.naruto-u.ac.jp/Tenzi200605/comment_tatuoka.html)。


 ドイツ軍も砲台や歩兵隊による反撃を繰り返し、10月17日には駆逐艦「S90」が魚雷攻撃で日本艦「高千穂」を撃沈した。「高千穂」は20年前の「日清戦争」で大活躍した艦だがこの頃には完全に旧式化して輸送船として使われており、この時の死者264名は第一次世界大戦における日本海軍の最大の損害となった。その一方で13〜15日には大正天皇の要望とアメリカ領事(中立国)の仲介によって一時的な休戦が成立し、その間に青島要塞内にいた非戦闘員約1300名がすべて退去、さらに戦死体の収用が行われた。大正天皇はこの戦役にあたり、「国の為めたふれし人の家人はいかに此の世を過すなるらむ」「ぬけかたき砦ぬかんと捨てし身を慕ふ妻子や如何に悲しき」といった歌を詠んだ。

   空の戦い   
目次に戻る 

 戦いは青島の上空でも行われた。日本軍が実戦に飛行機を投入したのはこの時が最初であり、陸海軍がそれぞれ別に部隊を編成・投入した。その戦力は陸軍が「モーリス・ファルマン(モ式)」4機と「ニューボール(ニ式)」1機、海軍が「モーリス・ファルマン水上機」4機(70馬力型3機と100馬力型1機)であった。9月5日に先に戦地についた海軍組は輸送船を改造した「若宮」という水上機母艦を用いており、その当日さっそく2機を飛ばして実戦偵察を行っている。指揮官は和田秀穂大尉であった。ちなみに「若宮」はこの艦種としては世界初のフネなのだが、当時は「水上機母艦」という呼称はまだなく、「航空隊母艦」と呼ばれていた。

 手元に資料があるので陸軍の航空部隊について少し詳しく書く。陸軍の航空隊長は有川鷹一工兵中佐、操縦将校は徳川好敏工兵大尉その他である。徳川大尉は4年前に日本人として初めて飛行機を飛ばした人物である。航空部隊は龍口に上陸した部隊に含まれており、折からの暴風雨で機体が壊れそうになったが徹夜の防護作業で事なきをえたという。9月21日に即墨の着陸場から陸軍史上初の実戦偵察に飛び立ち、24日の飛行では地上から銃撃されて7発の命中弾を受けたが負傷等はなかった。この「偵察」は陸軍大学校出身のエリート偵察将校が(航空隊長の指示を受けるのではなく)師団長(神尾中将)から直接命令を受けて複座(2人乗り)機の後部座席に搭乗して行い、航空隊長は飛行機に関する技術的事項のみを担当するという、今から考えれば変則的な形をとっていた。徳川たちの階級をみれば分かるとおり、航空というのは最初は工兵の職掌だったのである(大正14年に分離)。

 27日には最初の爆撃を行った。この時の目標は膠州湾にいたオーストリア巡洋艦「カイザリン・エリザベート」であった。事前の実験も訓練も何も無く、3機編隊が小型の落下傘をつけた砲弾を高度700メートルから3個づつ投下して戦果ゼロ、しかし標的の「カイザリン・エリザベート」はかなり狼狽えて右往左往したといわれている。反撃も相当なもので「カイザリン・エリザベート」は銃弾を1000発も撃ちまくり、爆撃に参加した3機が3機とも機銃弾を喰らっている。その後も偵察や爆撃に出るたびにかなりの高率で命中弾を喰らっているが、その弾は飛行機の布張りの羽根を突き抜けるだけなのでダメージはなく、負傷者も出なかった。爆撃方法は砲弾に落下傘を付けたり矢羽根を付けたりと現場で色々と工夫し、小型艦を1隻だけ撃沈したといわれている。

 青島のドイツ軍が所持する飛行機は「ルンプラー・タウベ」機が3機、うち使用可能なのは1機だけであったが頻繁に上空に現れては偵察や爆撃を行った。操縦士は海軍大尉のグンテル・プルショーであった。日本側航空隊はこれとの空中戦を予期して警戒を強めたが、爆撃がそうだったように空中戦に関しても特にこれといった準備はしていなかった(ドイツ側もそうだったが)。とりあえず操縦士が携行している拳銃では話にならないので地上部隊から機関銃を貰ってきて積み込んだ。

 10月13日、初めて空でドイツ機と接触したが高空に逃げられた。日本軍はその後2機を待機させてドイツ機が現れるのを待ちわび、21日に至ってようやく最初の空中戦を行うことが出来た。といってもドイツ機には操縦士の拳銃以外に武装はなく、日本側のニューボール機が座席の上に取り付けた機関銃を乱射して追い回すだけで、性能に勝るドイツ機が雲間に逃げ込んで終わりとなった(ドイツ機の操縦士も拳銃を30発撃ったがもちろん命中せず)。この結果を考慮した日本軍は民間が輸入していたルンプラー・タウベ機2機を買い上げたが、それらが戦地に到着した当日に青島のドイツ軍が降伏したため活躍の機会なしという結末となった。まぁそれは後の話として……、空戦は全部で4回行われたが、結局はどちらも損害ゼロであった。10月29日には夜間偵察が行われた。地上部隊では三八式野砲(口径75ミリ)を改造した高射砲でドイツ機を迎撃してみたが、2発撃っただけで(砲が)壊れてしまった。何から何まで試行錯誤だったようである。

   南洋の攻略   
目次に戻る 

 ここで少しだけ話の舞台を変える。太平洋のドイツ領の島々については、赤道以北の攻略を日本軍が、以南をオーストラリア・ニュージーランド軍が担当することになっていたことは既に註で述べた通りである。まず9月11日にオーストラリア軍がニューブリテン島のラバウルに上陸、6日間の戦闘で占領した。ニュージーランド軍は西サモアの中心地アピアを占領である。赤道以南については(その2つがドイツの最大の拠点だったので)これで決着がついた。赤道以北を担当する日本軍は、最初は島々のドイツ施設の破壊のみですませるつもりだったのだが、やがて考えをかえて継続的な占領政策に転換した。まず9月29日にヤルート島を、10月14日にサイパン島を占領である。完全に無血であった。イギリスは……8月の時点では日本の参戦を全面的には歓迎しなかったのがこの頃には考えを変えて……日本海軍の駆逐艦を(ヨーロッパの)地中海の対ドイツ潜水艦戦に派遣してもらうという条件で日本による赤道以北623島の永続的占領を認めた(ただしナウル島だけはイギリスが貰った)。日本軍はカロリン諸島のトラック環礁に司令部を置いてサイパン等6ヶ所に軍政庁を設置した。

 まあしかし実は、日本が対独宣戦した時に既に青島から消えていたドイツ東洋艦隊主力が強力な新型艦を持っていたのに対し、日本海軍は10年前の日露戦争で全力を出し尽くしたせいで艦艇の更新が遅れており、南太平洋ではオーストラリア・ニュージーランド・イギリス・フランスの海軍力も貧弱なものであった。ここで、孤立無援のドイツ東洋艦隊にも活躍の余地が出てくる訳であるのだが……。

   青島占領   
目次に戻る 

 それはさておき、青島要塞への総攻撃は大正天皇の誕生日である10月31日から始まった。まずは猛烈な砲撃である。第一陣が龍口に上陸してから2ヶ月近く経っているが、その間に日本軍は攻城に必要な大型砲を労山湾の桟橋に二脚起重機で揚陸し、そこから鉄道聯隊が敷設した軽便鉄道……10月中旬の暴風雨で線路が流されたりした……を使って青島の手前まで輸送していた。日本軍の大砲で特に威力を発揮したのは11月4日から射撃を開始した28センチ榴弾砲で、その援護のもとに歩兵部隊がじりじりと前進する。話が前後するが11月2日にはオーストリア巡洋艦「カイザリン・エリザベート」が日本軍の砲撃に耐えられなくなって自沈、4日には要塞内の発電所に砲弾が命中して発電が停止した。ドイツ軍も大砲や機関銃を動員して猛烈に反撃してきたが、やがて疲れてきたのか不発弾が多くなった。青島要塞は基本的に海からの攻撃を想定した造りになっており、陸からの大規模な攻撃には耐えられなかった。

 そして7日の午前1時40分頃、日本軍の歩兵第56聯隊が青島要塞の中央堡塁を占領、その後数時間のうちに、歩兵第48聯隊がビスマルク砲台を、歩兵第55聯隊が小湛山北堡塁とイルチス東砲台を、歩兵第46聯隊が小湛山堡塁とイルチス南砲台を、第29旅団が海岸堡塁とモルトケ砲台をそれぞれ占領した。ドイツ軍は残った砲台を爆破したうえで午前6時半頃に白旗を掲げて降伏を申し出た。この戦闘に直接参加した日本兵は約2万9000名でそのうち1250名が死傷、ドイツ側の死傷者は約900名であった。青島占領の報を受けた大正天皇は以下の勅語を発した。「青島は敵の東亜に於ける唯一の根拠にして水陸の防備是に侮る可らざるものあり。然るに青島攻撃に参加したる我陸海軍は開戦以来協心戮力、勇戦奮闘其の堅塁を抜き其の艦艇を沈め遂に敵城を陥れ以て戦闘の目的を達したり。朕深く汝将卒の克く其の重任を完くし偉大の功績を奏したるを嘉す」。入城式は16日に行われた。それから、既に述べた通り青島攻略作戦には少数のイギリス軍も参加していたのだが、日本軍とはあまりよく連絡がとれておらず、誤って同士討ちをしてしまったこともあったという。

 この後の日本軍は、太平洋のどこかに姿をくらましているドイツ東洋艦隊の捜索や地中海でのドイツ潜水艦殲滅のためにいくらかの艦艇を提供する以外には、大戦に深く関与するのはやめてしまった。ヨーロッパの戦いは開戦時の予測をはるかに上回る激戦・長期戦となり、それに耐えられなくなってきた英仏露はヨーロッパ戦線に日本陸軍が投入されることを望むようになるのだが、日本は「日本軍は西欧で作戦すべき編制装備を有していない」「出兵しても2、3個師団の小兵力では効果が少なく、20個師団ぐらいはせねばならないだろう」「これには5500万トンもの船舶を継続使用しなければならず、戦費を含め日本での調達は不可能」「20個師団というと国軍すべての動員となり、本国の防衛が欠如する」としてこれを断り、かわりに長期戦に苦しむ諸国への輸出を強化して好景気に湧くことになる。(「対華21ヶ条の要求」や「シベリア出兵」については本稿の扱う範囲ではない)

第6部 大戦への道」に戻る

第8部 海の戦い」に進む

戻る