ド・ゴール伝 第3部その1

                  

   大国フランス   (目次に戻る)

 ここで少し話を戻す。第二次世界大戦の終結迫る1945年4月、フランス軍がライン河を渡河してドイツ本国に侵攻していた。実は連合軍によるドイツ本土侵攻作戦にはフランス軍の役割は入っていなかったのだが、ド・ゴールの「フランス軍は侵攻し占領する領土の面積を国際間の協議の場でフランスが自己主張できるに充分な広さにする事実を作り上げたい」との方針に基づき、まったく独自の判断で軍隊を動かしたのである。22日にドイツ領のシュトゥッツガルドを占領したフランス第1軍の勝手な行動は政治問題になりかけたが、ド・ゴールは「ドイツ領土占領のような、フランスにとって密接な問題は、当然関係国間で討議されなくてはならないのに、残念なことにそれがなされなかった」として強引に押し切った。とにかくフランスの存在を全世界にアピールしようと、5月9日に行われたドイツの降伏文書署名にも、9月2日に行われた日本の降伏文書署名にもフランスの代表が列席した(註1)。ド・ゴールの共和国臨時政府は自らを「戦勝国」として位置づけ、フランス軍をドイツ・オーストリア占領に参加させ、国際連合創設にも加わって安全保障理事会の常任理事国になった。ド・ゴールはフランスの「大国」という国際的地位復活を目指し(註2)ていた。しかし、ド・ゴールの活躍もここまでである。

 註1 ドイツ代表カイデル元帥は、「なんだフランスもか」と呟いたという。また、日本の降伏文書署名の行われたアメリカ戦艦「ミズーリ」の隣には、フランス戦艦「リシュリュー」の姿があった。

 註2 これについてはイギリスの強力な支持があった。イギリスからみて、将来のドイツ・ソ連を押さえるには強いフランスが必要である。

   

   RPF   (目次に戻る)

 ド・ゴール退陣後、世界は急速に米ソの「冷戦」へと移行していた。イギリスのチャーチルによる「鉄のカーテン」演説がなされたのが46年3月、この時アメリカに渡っていたフランスの特派使節ブルムはアメリカからの経済援助提供の見返りとして、フランス政府からの共産党の追放を約束したともいわれている(新版フランス史)。

 46年11月に行われた総選挙は、前回と同じく共産党が第1党を占めた。47年1月に組閣されたラマディエ内閣もまた前回と同じく社会党・共産党・MRPその他による挙国一致政権であったが、やはり台風の目は共産党であった。共産党は4月におこったルノー社のストライキをめぐって首相と対立し、結局閣外へと追放されてしまった(註1)

 註1 西欧からの共産主義勢力一掃を狙ったアメリカの圧力による、と全部の資料に書いてある。

 ここで唐突にド・ゴールが復活する。4月14日、ド・ゴールは「フランス国民連合(以降RPFと記す)」の設立を表明し、反共産主義・国民の団結・第四共和政憲法の改正(自分の思い通りにならない、いやならなかった政党による政治を退け、強力な権限を有する大統領を求める)等々の右翼的な主張を掲げて10月の自治体選挙に殴り込んだのである。ジャーナリストのアレクサンダー・ワースは「ド・ゴール、ファシスト扇動家となる」と評してこの時のド・ゴールの演説と大戦前のヒトラーの演説との共通点を指摘しているが、何で突然こんなことをやったのか、その正確なところは今でも謎の部分がある(ド・ゴール伝)。

 とにかく自治体選挙はRPFの圧勝であった。投票の約40%を獲得したRPFは実際には社会・共産両党の勢力をさほど減退させることはなかったが、しかしそれ以外の党を地方自治から追い出してしまった(註2)。この頃は冷戦に突入した直後で人々の間に共産主義への恐怖感が高まっており、その空気を読んで徹底的な反共を唱えたことが勝因であった(フランス現代政治史)。「つい2年前には米英に張り合うためにソ連を利用しようとしたド・ゴールは、47年には反共カードを徹底的に使うのであった。『強いフランスの再生』のためには使えるものは何でも使い、捨てるものは容赦なく捨て(前掲書)」るのである。

 註2 とはいってもそれは地方自治の話であり、国政とは無関係。

 ちなみにRPFの幹部連はそのほとんどが元自由フランスの「解放の戦友」であった。何度も書いているが自由フランスには右翼的な思想を持つ人々が少なくなかった。それからRPFの有力なスポンサーにマルセル・ブロック・ダッソーという人物がいた。彼はフランスの航空機産業の帝王で、ずっと後のド・ゴール政府(58年成立)にて影の実力者として君臨することになる。かの戦闘機「ミラージュ」シリーズのダッソーである。

 共産党も活発に動く。この党はRPFから執拗に罵られていたが、それよりも政府(社会党・MRPその他の連立)を激烈に攻撃、自治体選挙の直後から全国規模のストライキを展開し、各地で市庁舎攻撃等の暴動を起こした。

 しかし政府は共産党とRPFによる左右からの攻撃を乗り切った。政府は8万人の武装治安部隊を召集してストライキを徹底的に弾圧し、共産党系の最大労組「労働総同盟」をアメリカからの補助金を用いて(ド・ゴール伝)分裂させることに成功した。RPFは‥‥こちらは勝手にコケてしまった。どんどん過激に走るRPFの集会ではド・ゴールは数千の武装した男たちに護衛され、共産党との抗争で起った流血の惨事は人々に警戒の念を抱かせた。48年3月の県議会選挙ではRPFは思ったほどの勝利を得ることが出来ず、51年の総選挙でのRPFの得票率はやっと20%、47年の自治体選挙の時の半分程度であった。右派の票を集めたのは、中部山岳部の困窮する手工業者や小商店主の運動からおこった「プジャード派」であった。

 52年3月、RPFが分裂してその一部が政府支持にまわり、「独立農民社会行動派」のピネーを首班とする新内閣が成立した。ピネーは中道右派を代表しており、さらに右派の中でアメリカに追随的な分子の支持を得ていて、反アメリカ的なRPFは孤立した。53年4月の自治体選挙でRPFが得た得票率は10%以下であった。ド・ゴールはRPFの解体を決意し、55年7月には「公的生活より引退する」と宣言したのであった。「さようなら、多分かなり長い間」。ド・ゴールはもう65歳になっていた。(ここで補足。第四共和政憲法とは以下の様なものである。議会は国民議会と共和国評議会の2院制であるが、立法権を有するのは国民議会のみである。7年任期の大統領は両院合同会議によって選出されるが実質的な権限は有さない。閣議の議長たる首相は大統領から指名されるが、議会で過半数の支持を得た上で閣僚の任命が可能となる……議会と政党の力が極めて強く、結果的に小党分立で強力な政府を欠くという点で戦前の第三共和政と大して変わらなかった)

   

   インドシナ   (目次に戻る)

 この頃、フランスを外側から大きく揺るがせていたのがインドシナ問題である。大戦中日本軍の占領下にあったこの地域では日本軍の降伏と共に「ヴェトナム民主共和国(以降「ヴェトミン」と記す)」の成立が宣言されていた。しかし当時フランス政府首班だったド・ゴールはインドシナを手放すつもりは全くなく、現地に軍隊を送って主要都市を占領した。フランス本国で行われたヴェトミン主席ホー・チミンとフランスの海外相ムーテとの交渉も決裂、46年10月にはフランスとヴェトミンとの全面戦争が勃発するのだが、現実に戦争が始まる前に退陣したとはいえ、「インドシナ戦争」の種をまいたのはつまりド・ゴールなのであった。インドシナ戦争は7年にわたって継続され、ヴェトミンのゲリラ戦に悩むフランス軍は少しづつ不利な状況に追い込まれていった(註1)

 註1 フランスは同時期の「朝鮮戦争」にも小規模ながら派兵している。

 1954年5月、フランス軍の重要拠点ディエン・ビエン・フーが陥落した。当時のフランス政府(ラニエル内閣)はアメリカに泣きつき、国防相・外相が渡米して原爆投下まで要請したが、続いて組閣した(6月)マンデス・フランス首相はなんとか停戦協定の締結へと漕ぎ着けることに成功した。

 7年半もの戦争で10万近いフランス兵が死んだとはいえ、一般のフランス国民はインドシナにそれほど未練を持たなかった。ヴェトナムは南北に別れて独立し、ヴェトミンの支配するのは北側だけ、南側にはその影響は及ばず、ゆくゆくは南を主体とする統一の可能性も示されたことはフランス国内で好意的に受け入れられた(以降のヴェトナム史は本稿の述べるところではない)。この停戦協定は議会をほとんど満場一致(462対13)で通過した。同じ頃に独立運動を激化させていた北アフリカのチュニジアとモロッコも、いくつかの段階を経て(註2)56年には完全独立を達成するに至った。

 註2 この両国は最初から「保護領」であり、ある程度の自治と、将来の独立を約束されていた。昔からの君主(モロッコでは「スルタン」、チュニジアでは「ベイ」と呼ぶ)も存続し、独立運動もよく組織されていた。ただ、モロッコはスルタン中心の独立だったことから現在まで王制だが、チュニジアは独立運動で活躍した新ドゥストゥール党のブルギバを大統領とする共和政に移行した。

 しかしフランスにはまだとてつもないやっかいな問題が残っていた。アルジェリアである。

   

   アルジェリアの沿革   (目次に戻る)

 北は地中海、南はサハラ砂漠にのびる広大なる植民地アルジェリア。フランスがこの地域に本格的に侵入したのは百年以上も前、1830年7月5日のことである。アルジェ市を占領したフランス軍はアブドゥル・カーディル等現地アルジェリア人の抵抗を退け、1834年7月24日の勅令によってアルジェリアのフランス所領たることを宣言した(註1)。北部の平地はフランス人入植者によって盛んに開拓され、20世紀の中頃には地中海最大のぶどう酒生産地となっていた。すでに1870年代に20万にも膨れ上がった現地の白人(以降「コロン」と記す(註2)。フランス人とは限らず、スペイン、イタリア系もたくさんいた)には自治権が認められ、アルジェリアを西から3つに区分するオラン、アルジェ、コンスタンチンの3県はフランス本国の県と同様、本国議会に議員を選出する権利を有していた(註3)

 註1 もっとも、アブディル・カーディル等の抵抗運動は1847年まで継続される。最後の大規模蜂起は1871年。

 註2 詳しくいうと「コロン」とは地主階級を指し、中産・下層階級は「ピエ・ノワール」と呼ばれることが多い。本稿では混乱を避ける意味で一括して「コロン」と表記する。

 註3 その意味ではアルジェリアは本国の延長であるが、その全体を「総督」が支配している点で本国と異なる。しかし他の植民地の総督が外務省・植民省の推薦によるのに対し、アルジェリアのそれは内務省の推薦によるものであり、やはり別格なのである。

 第一次世界大戦後、前線でフランスのために戦ったアルジェリア人(つまり原住民)にもフランス市民権を与える(得やすくする)立法が行われたが、約100万を数えるコロンは、900万ものアルジェリア人をがっちりと組み伏せており(註4)、そのアルジェリア人を単に「世襲不動産の一部分(アルジェリア独立革命史)」としか考えない、「本国のフランス人とは違う一種の国民性を発展させていた。強い人種的偏見の中で育ち、既得の特権的地位に執着する彼等は、アルジェリア人の権利拡大に反対(新版フランス史)」していた。例えばコロンの多い地域は「完全町村」として自治が認められていたが、少ない地域は「混合町村」として中央官庁の任命する文官行政官の支配下に置かれ、アルジェリア人のみの地域は「原住民町村」として軍人行政官に支配されていた。

 註4 混血もほとんどしなかった。

 フランスから海外の植民地に移住した白人のうち9割近くはアルジェリアを中心とする北アフリカに植民しており、とくにアルジェリアとフランス本国との経済的・軍事的結びつきはインドシナのそれとは比較にならなかった(河野フランス現代史)。そして第二次世界大戦。アルジェリアは最初はペタン元帥に忠誠を誓い、次いでダルラン提督、ジロー将軍、最後にド・ゴールに従った(註5)。この辺りの話はすでに述べた通りである。(補足。第二次世界大戦前夜のフランスの植民地で、現地の総人口に白人の占める割合が10%超だったのは、アルジェリアと南大平洋・カリブ海の島々(註6)のみ。インドシナでも0.14%程度であった。また、白人の絶対数においても、10万人を超えていたのはアルジェリア、チュニジア、モロッコだけで、その3つに続くインドシナでやっと3万2千であった。以上、『フランス植民地帝国の歴史』より。ただ、チュニジアとモロッコでそれぞれ10万を超えていた白人が両国の独立後どうなったのかは資料がなかった)

 註5 アルジェリアは21万6000人の兵士を送り出した。そのうちアルジェリア人は12万3000人であった。ちなみに黒色アフリカからは8万人であった。

 註6 第四共和政において、「海外県」と呼ばれる植民地は本国の法律がそのまま適用されるが、アルジェリアは県を持ちながらも原住民が多数を占めるため、現地にのみに通用する「政令制度」の下にある。かような植民地は普通は「海外領土」に区分されるが、アルジェリアはあいまいなままである。

   

   セティフの虐殺   (目次に戻る)

 1945年5月8日、つまりドイツ降伏の翌日、アルジェリアのセティフの町に「かつてフランスに抵抗した英雄アブドゥル・カーディルの旗印(アルジェリア独立革命史)」緑と白の旗が翻り、「人民解放のために、自由独立のアルジェリア万歳 ! 」と叫ぶ数千のアルジェリア人が満ち溢れた。そこで……どちらが仕掛けたのかは不明だが……乱闘が起って100人余りのコロンが殺された。これに対するフランス軍とコロンの自警団(註1)の報復は激烈で、急降下爆撃機・戦車・艦砲まで投入して(註2)殺したアルジェリア人の数は、最も少なく見積もった資料で6000人、最大で4万5000人とされている。

 註1 アルジェリア共産党までフランス軍に協力した。

 註2 捕虜収容所のイタリア兵捕虜まで鎮圧作戦にかりだしたという。(アルジェリア革命)

 47年、「アルジェリア構成法」が制定され、様々な面でのアルジェリア人の権利拡大が約束された。しかしそれには期限が明記されておらず、コロンだけの権益を擁護する様々な抜け穴がつくられていた。また、ここで設置された「アルジェリア議会」も、コロンとアルジェリア人とがそれぞれ別個に60議席づつ議員を選出するという点で両者の人口の違いを無視しており、実際の選挙においても徹底的な選挙妨害が行われたため、選出されたアルジェリア人議員はほとんどコロンの傀儡であった。構成法の記した改革はこの議会でことごとく否決され、たまに通った法案は今度は総督の否決権によって潰された。

 かように、アルジェリア人が合法的手段によって権利を拡大することは実質的に不可能であった。たまにフランス側が「改革」を受け入れてくれてもそれは徹底的に骨抜きにされ、アルジェリア人を幻滅させるばかりであった。コロン一般層は……金持ちと貧乏人の経済格差が酷かったのだが……貧しいコロンほどアルジェリア人の権利拡大に徹底的に反対する傾向が強かった。人口で優位なアルジェリア人に経済的に圧迫されたら困るからである。

 こうした状態の中、アルジェリア人による独立運動はなかなか本格的な軌道に乗ることが出来なかった(註3)。合法政党として「アルジェリア宣言民主同盟(UDMA)」「民主的自由勝利のための運動(MTLD)」が存在したが、両者の足並みは揃わず、後者に至ってはさらに分裂を来す有り様であった。ところが、MTLD内部で非合法活動に従事していた一団「安全組織」が、上のような内部抗争に見切りをつけ、望みのない合法闘争から武力による直接行動をとるべきとする意見を持ち出した。

 註3 とはいっても、それ以前にアルジェリア人による独立運動が存在しなかった訳では決してない。しかしヴィシー派総督の支配下においては運動の指導者の多くが逮捕・投獄され、ジロー将軍はアルジェリア人の訴えを「自分は戦争をしているのであって政治をしているのではない」といって聞く耳もたず、その後ド・ゴールによってアルジェリア総督に任命されたカトルー将軍はコロンに遠慮して大した改革をしなかった。カトルーやド・ゴールによる若干の改革(地方議会におけるアルジェリア人議席の拡大等)はアルジェリア人には冷淡に迎えられ、コロンには我慢のならないものであった。

 かくして54年3月、いわゆる「歴史上の9人」を最高幹部とする対フランス抵抗組織「統一と行動のための革命委員会(以降CRUAと記す)」が結成されるに至った。CRUA初の全体会議の日、インドシナでディエン・ビエン・フーのフランス軍がヴェトミン軍に降伏した。フランス軍のアルジェリア人兵士に対し、ヴェトミンは「君は立派な兵士だ。なぜ植民地主義者に対して戦わないのか? なぜ君は君自身のために戦って君自身の国を勝ち取らないのか?」と問いかけたという(アルジェリア独立革命史)。

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