ド・ゴール伝 第2部その2

   

   アフリカ・シリアの戦い   (目次に戻る)

 

 11月17日、アフリカでの一通りの仕事を終えたド・ゴールがロンドンに戻ってきた。大戦の情勢はまだまだ予断を許さないものがあった。ドイツ空軍による激烈な攻撃を退けた(註1)とはいえ、ドイツと戦う大国は依然としてイギリス一国のみであり、それに、これは特にド・ゴールにとって大問題なのだが……フランス本国のヴィシー政府は、イギリス以外の全世界の承認を受けていた。自由フランス軍に出来ることは、祖国の解放などという偉大な目的よりも、とにかくドイツ・イタリア軍との戦いにおいて、少しでも目立った活躍をするということだけである。

 註1 40年8月13日から10月31日まで、ドイツ空軍によるイギリス本土空襲が繰り返された。いわゆる「バトル・オヴ・ブリテン」である。イギリスは戦闘機隊の活躍とレーダーの活用によってドイツ軍を退けた。

 12月11日、北アフリカのエジプト(註2)でイギリス・イタリア間に行われたシディ・バラニの戦闘でフォリオ少佐率いる自由フランス植民地歩兵大隊が奮戦し、同じくアフリカ騎兵1個中隊がエリトリア(註3)のイタリア植民地軍と交戦した。後者はエリトリアの近くの仏領ソマリア(現在のジブチ共和国)のヴィシー側駐屯部隊が寝返るのを期待するものであったが、結局彼等は動かなかった。ド・ゴールにとって苦々しいことに、イギリス政府はまだ水面下でヴィシーとの交渉を続けていた。ペタンたちがフランス本国を脱出して植民地に来るならばこれを支援する準備がある……しかしペタンは動かない。

 註2 エジプトはイギリスの影響下にあり、西隣のリビアはイタリア領であった。イタリア領リビアについては当サイト内の「イタリアのリビア征服」を参照のこと。

 註3 エリトリアはイタリア領、隣接するスーダンはイギリス領。

 黒色アフリカのチャドでは自由フランス軍のルクレール大佐の部隊が活発な戦闘を行った。41年初め、ルクレール部隊はアフリカ大陸中央部のチャドからサハラ砂漠を越え、イタリア領リビアの南部にあるクフラの要塞を占領した。この時は降伏したイタリア兵の方が相手の装備の貧弱さに驚いたという。かようなサハラ砂漠でのイタリア軍との戦闘は43年にイタリア・ドイツ勢力がアフリカから駆逐されるまで継続されることになる。

 話は戻って1941年春、ドイツ軍がバルカン半島・北アフリカにて攻勢に出た。4月中にはギリシアのイギリス軍が撤収に追い込まれ、同じ頃には北アフリカのリビア(イタリア領)に上陸したロンメル将軍指揮下のドイツ軍(註4)がエジプトのイギリス軍に大打撃を与えた。ドイツはさらに中東をうかがい、ヴィシー政府と交渉して(註5)、ヴィシー側に立つフランス委任統治領(註6)シリアの飛行場を(ドイツ軍の飛行機が)利用出来るようにした。5月末にはシリアにドイツ・イタリアの飛行機120機が到着してイギリス政府を焦らせた(註7)

 註4 この少し前にリビアのイタリア軍がエジプトのイギリス軍に惨敗したため、救援としてドイツ軍が派遣されてきたのである。

 註5 占領税を1日4億フランから3億フランに減額し、捕虜9万人を釈放した。

 註6 委任統治領とは国際連盟から統治を委託されている地域のこと。連盟の委任統治常任委員会に毎年の統治報告書を提出する義務を有するが、実質的には大国の植民地である。

 註7 シリアの隣のパレスチナがイギリス委任統治領。

 ド・ゴールの方も、シリアを自由フランスの影響下におこうと考えていたが、シリアのフランス軍はあくまでヴィシーに忠誠を誓い、多数の戦車・航空機を含む約3万の兵力を揃えて国境地帯を固めていた。兵員6000に大砲8門・戦車10輛・飛行機20機を動員するのがやっとという自由フランス軍がシリアを攻略するにはイギリス軍の協力が必須だが、シリア周辺に展開するイギリス軍部隊はなかなか自由フランスに協力しようとしなかった。特にエジプトにはかなり強力なイギリス軍がいたにもかかわらず、リビアのドイツ・イタリア軍との戦いに忙しい彼等には、シリアにまで戦線を拡大するゆとりがなかった。さらに、ちょうどこの頃シリアの隣国イラクで親ドイツ派が政権を握っており、イギリスはそちらへの対応をも迫られていた。

 一方、エジプトのアレクサンドリア港に以前から碇泊していたフランス艦隊(註8)は、ヴィシー政府の対独休戦に従いつつも、上の様な事情にあるイギリス軍とも独自の協定を結び、何もせずにただじっとしていた。イギリス軍のヴィシーに対する戦略は、その場その場の局地的な事情に左右されるところが大であった。4月にアレクサンドリアのイギリス艦隊を訪問したド・ゴールは、この「惰眠をむさぼり、役に立たずにいる美しいフランスの軍艦(ド・ゴール大戦回顧録)」を、黙って眺めているしかなかったのであった。

 註8 戦艦1隻を含む7隻。本来はイギリス東部地中海艦隊と合同してイタリア艦隊と戦うためにアレクサンドリアにいた。イタリアがフランスに宣戦した40年6月10日からフランス本国政府が休戦する24日までのわずかの間に戦艦「ロレーヌ」を出撃させてイタリア植民地を砲撃している。

 5月、ようやくイギリス軍がシリア攻略に同意した。28日、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムに本陣を置く自由フランス・イギリス連合軍(自由フランス軍は後詰め)がシリアへと攻め込み、以後1ヵ月以上に渡って戦いが行われた。これとほぼ同時期、別のイギリス軍がイラクに侵入してそちらの親独派政権を片づけにかかっていた。

 7月12日、イラクの親独派を片付けたイギリス軍がシリアに転用され、ここでようやくヴィシー軍の停戦を勝ち取った。去る6月下旬にドイツとソ連が交戦状態に入り、そちらの方が忙しくなったドイツが中東にかまっていられなくなったことが幸いした。自由フランス・イギリス軍の死傷者は約4000、ヴィシー軍の死傷者も6000を数えていた。問題はその後も続いた。自由フランス軍は一応イギリスの指揮下にあったので、シリアのヴィシー軍との交渉にはイギリス軍の代表があたることになっていたのだが、イギリスはシリアのヴィシー軍に対し、その装備を保ったままフランス本国に帰ることを認めてしまったのである。

 このことはド・ゴールを激怒させた。彼はシリアのヴィシー軍3万をそのまま自由フランス軍に帰順させるつもりでいたのに、結局味方に引き入れたのは6000程度、さらに、イギリスはシリアを自らの軍事的支配権のもとに収めようとしていた(ド・ゴール大戦回顧録)のである。もちろん、それまで自由フランス軍と猛烈に戦っていたヴィシー軍が本当にそのまま全てド・ゴールに帰順したかどうかは疑わしい(ド・ゴール伝)が、とにかくイギリスが「シリアは自由フランスの下にあるフランス委任統治領である」と認めたのはその年11月になってからのことであった。(註9)

 註9 ド・ゴールはシリア・レバノンの原住民を味方につけるためにその独立を約束し、43年に現実に独立させた。

 亀裂はこれ以外の箇所にも存在した。この年1月1日、新年を家族とすごしていたド・ゴールのもとに英外相イーデンから呼び出しがかかり、「自由フランス海軍総司令官ミュズリエ少将を『ヴィシーのスパイ』として逮捕した」との通告を受け取った。これは全くの冤罪であり、ミュズリエも1週間で釈放されて、チャーチル英首相の陳謝を受けたものの、最初ド・ゴールはミュズリエを疑っていたと言われ、そのことの真偽は不明だが、両者の関係は次第に冷えていき、42年3月のミュズリエ解任(註10)へとつながるのであった。

 

 註10 ミュズリエはイギリス海軍省の支持を受けて自由フランスを乗っ取ろうとした(ド・ゴール大戦回顧録)が、自由フランス海軍の大部分はド・ゴールを支持した。

   

   諸大国との折衝   (目次に戻る)

 第二次世界大戦の戦火は全世界に拡大していた。1941年6月にはドイツ軍がソ連に攻め込み、同年12月には日本軍が真珠湾を攻撃、これによってアメリカ合衆国がドイツ・イタリア・日本との戦争状態に入った。前述のとおり日本軍はすでにフランス領インドシナに進駐していたが、その日本の対英米宣戦により、今度は南太平洋のフランス植民地(タヒチ島等)の重要性が一挙に増加した。

 現地の島々には12月末にミュズリエ少将が到着して自由フランスの支配権を固めていたが、状況次第によってはいつヴィシー側に寝返るともしれず、自由フランスが太平洋に送った大型潜水艦「シュルクーフ」は貨物船との衝突事故によって失われていた。しかし、ここではアメリカが味方であった。自由フランスは早くも12月9日に対日宣戦を布告しており、その「自由フランスの」領土となった太平洋の島々は米軍による対日戦略の拠点として大いに期待されたのである(ド・ゴール大戦回顧録)。親ドイツ的なヴィシーの植民地が(ドイツの同盟国である)日本軍と戦うとは考え難く、逆に自由フランスはすでに6月に黒色アフリカの飛行場を米軍機が使用することを認めていた。

 かくしてアメリカは1942年1月には「太平洋方面フランス領諸島における自由フランスの主権を認める」旨の覚え書きを送って寄こし、3月には多数のアメリカ軍が現地に到着した。そのうち、5月に起こった珊瑚海海戦によって日本軍の南進が阻まれ、南太平洋における自由フランス領土の保全は何の心配もないものとなったのである。

 しかし、アメリカのこの動きはあくまで局地的なもので、国家としてはこの後もしばらくヴィシーをフランスの正統政府として承認し続け、大統領ルーズベルトもペタンに敬意を払っていた。アメリカとしてはヴィシーと敵対するのではなく、なるべく対独協力をやめさせる方向で努力するという方針であった。ヴィシーが全世界に持つ植民地軍と艦隊は侮り難いものであり……アメリカの喉元とも言えるカリブ海にもフランス植民地がある……万が一それらがドイツ軍の指揮下に入ったら大変である(大森ド・ゴール伝を参考とした)。

 しかも、ルーズベルトも国務長官ハルもヴィシー駐在アメリカ大使リーもド・ゴールを傲慢な野心家とみなして(註1)個人的に嫌っていた。彼等とド・ゴールは以後数回に渡って衝突することになる(註2)

 註1 なぜド・ゴールが傲慢と言われるかはおいおい語っていく。

 註2 南太平洋でも、現地をアメリカ軍の軍政下に置こうとの動きがあった。アメリカ軍は43年12月にようやく「フランス系住民の特別の好意により現地防衛の任務にあたっている」ことを確認した。

 まずこんなことがあった。北大西洋のカナダの近くにサン・ピエール島及びミクロン島というフランス領の小島があるが、ヴィシーに忠誠を誓っていたこの島々はアメリカとの協定によって現状維持(ドイツ軍の利用を認めない等)を約束していたが、ド・ゴールはアメリカの同意を得ないまま自由フランス艦隊を送って現地を占領(註3)、アメリカとの関係を悪化させてしまった。

 註3 現地民(ここは白人だけしか住んでいない)は住民投票の結果90%の高率で自由フランスへの参加を決議した。

 その一方で、42年5月にはイギリス軍が、自由フランスには無断でヴィシー側の植民地マダガスカル島に上陸しようとしていた。インド洋の西の端に位置するこの大島に日本軍の爆撃機・潜水艦の基地が出来ることを憂慮したからである(註4)。前年のシリア問題といい今回のマダガスカル問題といい、イギリスの自由フランスに対する態度には大きな問題があり、ド・ゴールは英米以外の強力な味方を痛切に欲しがっていた。

 註4 また。この頃は地中海の南北両岸に強力なドイツ・イタリア軍がおり、イギリスと(イギリスの)アジアの植民地を結ぶ主要ルートたるスエズ運河の利用が困難になっていた。従って希望峰を回るルートを用いることになるが、その航路上にあるマダガスカル島に万が一ドイツや日本の基地が出来たら困るのである。そして確かに日本海軍が基地租借の交渉をしていたと言われており、その様な情報はイギリス側も掴んでいた。

 ここに登場するのがソ連である。既に何度か触れているがドイツとソ連が戦争状態に入った(註5)のは41年6月23日である。この時シリアにいたド・ゴールは早速「さしあたりソヴィエト体制の欠陥についても、また犯罪についても議論することを首肯せずに、ロシア国民に極めて率直に味方する旨、宣言せねばならない」との訓令をロンドンの自由フランス代表部にあてて打電した。それまで国交を持っていたソ連とヴィシーが断交した(ヒトラーの要求で)ため、自由フランス・ソ連間の提携が急速に進んだ。

 註5 ドイツとソ連は39年8月に「独ソ不可侵条約」を結んでいたが、ドイツの方が一方的にこれを破棄、ソ連侵攻「バルバロッサ」作戦を発動した。イギリスはただちにソ連への同盟申し入れを行った。

 ソ連に攻め込んだドイツ軍は最初は凄まじい快進撃を続けたが、その年12月にはロシアの厳しい冬の到来によって前進を阻まれ(註6)、続くソ連軍の冬季大攻勢にあってモスクワ前面からの退却を余儀なくされた。ド・ゴールはソ連に勝利のチャンスが充分にあると安心し(ド・ゴール伝)、ソ連に対し幾らかの自由フランス軍を援軍として送ろうと考えた。現実にロシアに送られた自由フランス軍はわずかに戦闘機1個大隊「ノルマンディー飛行大隊」のみであったが、それでもこれは「東部戦線において戦闘する唯一の西側部隊だった(ド・ゴール大戦回顧録)」のである。

 註6 ヴィシーがドイツのために編成した「フランス義勇軍団」も参加し、モスクワ前面で大打撃を被った。

 まあもっとも、この年元旦に米英ソ中などドイツもしくは日本等と交戦中の(註7)26々国が調印し後の「国際連合」の基礎となる「連合国共同宣言」には、自由フランスは入れてもらえなかった。正式の政府ではないからである……。

 註7 ソ連はこの時点では日本と交戦していないため、このような表現をした。

   

   占領下のフランス   (目次に戻る)

 1941年なかば、自由フランスは全世界の植民地に合わせて約7万の兵力を持ち(註1)、海上では50隻の艦艇(註2)、170隻の商船、多数の航空機(註3)を擁していた。もちろん自由フランス軍の装備は貧弱なもので、実際の戦闘では大した働きは出来ず、初めて大規模なドイツ軍とまみえた42年6月のビル・ハケムの戦いは結果的に自由フランス軍の敗北で、その兵力5000のうち1000を失った。ビル・ハケムは北アフリカの寒村で、有名なロンメル将軍との戦いであった。この時戦った自由フランス軍の主力はこれも有名な外人部隊で、その大半はドイツ人だったといい、10日間も敵の爆撃・砲撃に耐えた後に見事に突撃脱出した。ド・ゴールは「全世界に対して、ビル・ハケムの大砲はフランス復興の発端を告示する」との声明を発し、敵将ロンメル将軍にも、「断固たる指揮官は、必ず死中に活路を見い出すものだ」と讃えられた。

 註1 自前の陸軍士官学校はイギリス、黒色アフリカのプラザヴィル、シリアのダマスカスに開設された。

 註2 艦艇よりも乗員の不足が問題であった。自前の海軍士官を養成する「自由フランス海軍兵学校」も創設され、4期80人の卒業生を送り出している。装備面でも、フランス製の艦艇にイギリス製の武器を装着しようとしたらネジの規格からして違っていたとか色々大変であった。

 註3 1941年1月〜43年夏にかけて294機を撃墜、自らは412人の戦死者を出した。

 自由フランス軍はさらにイタリア領東アフリカ(エチオピア・エリトリア)の戦い(註4)にも参加していたが、かような軍事面での活動のみならず、イギリスとの経済協定に基づく為替レートや自由フランス支配地域〜イギリス間貿易の創設、自由フランス中央銀行(註5)の設立等の経済活動も熱心に行い(註6)、自由フランスは次第に国家の体裁を整えていく。ド・ゴールにとって自らの自由フランスはあくまで「主権国家フランス」そのものであり、イギリス等の諸外国にも自分を「主権国家の代表」として遇することを要求した。ド・ゴールは40年10月27日に黒色アフリカで発したプラザヴィル宣言において「もはやフランス政府は存在しない(本国のヴィシーは正統政府ではない)」ことを明確にし、自由フランスを率いる自分は「フランス国民が自由な意志によってその代表を指名することが可能になるまでその権力を行使する」とのことを公にしていた。一介の准将にすぎないド・ゴールと大英帝国の首相チャーチルとが論争する。「ド・ゴールは自分の立場をわきまえていない」「これは、私の立場ではなくフランスの立場なのである」。意地の悪い表現をすれば、選挙で選ばれた訳でもないのに、本国が占領されたという非常時にかこつけて勝手に元首のような顔をしていたということである。しかもド・ゴールは何かにつけて喧嘩腰であった。「あなた(チャーチル)は、確固とした国家、統一下にある植民地、偉大な軍隊という基礎の上に立っておられる。私ときたら! 私の手段がどこにありますか。しかもご存じのとおり、私はフランスの利益と運命とを背負っているのです。これは重すぎます。私はあまりにも貧弱なので、身をかがめることが出来ないのです(ド・ゴール大戦回顧録)」

 註4 現地のイタリア軍は30万の兵力を有し、40年8月には隣接する英領ソマリランドを征服したが、本国との連絡が悪く、航空戦力が貧弱だったため41年11月には連合軍の総攻撃の前に降伏を余儀なくされた。自由フランス軍だけでなくベルギー領コンゴの植民地軍も参加している。

 註5 軍人・官吏の給与の支払い、税金・寄付金・借款等の払い込みを受ける資格を有する。(植民地以外の)外国在住フランス人も自由フランス派とヴィシー派に分裂していたが、自発的に多くの「自由フランス委員会」が結成され、無視出来ない額の寄付金や援助物資を提供した。また自由フランス情報局の調整を受けたうえでド・ゴールへの協力を呼び掛ける雑誌が各国で出版されて好評をはくした。また、1942年の末頃には全世界の50のラジオ局が毎日総計7時間の自由フランスの番組を放送していた。

 註6 ド・ゴールはナチス・ドイツの迫害を受けるユダヤ人に同情の意を表明し、ユダヤ系財閥の支援を期待した。

 このような傲慢な態度には「自由フランスはイギリスの傀儡」というヴィシーの宣伝をかわすためにどうしても必要という事情もあり(註7)、チャーチルにもその点は理解されていた。40年7月の「メル・エル・ケビル事件」以来フランス人一般の対英感情が悪化しており、イギリスべったりではまずいのである。ド・ゴール本人がそのこと(何故自分があからさまに傲慢な態度をとるのか)をチャーチルに説明することもあったという(チャーチル大戦回顧録)。

 註7 ド・ゴールが自由フランスを「主権国家」たらしめんと努力した理由は他にもある。詳しくは後述。

 さてこの当時のフランス本国の情勢である。

 最初は意気消沈していた本国のフランス人たちも、徐々にレジスタンス(抵抗)に目覚めていった。フランス共産党は、第二次世界大戦勃発の直前にドイツとソ連(共産党の親玉)が不可侵条約を結んでいたことから、ドイツ軍のフランス侵入後も対ドイツのレジスタンスに消極的であった(註8)が、41年6月の独ソ開戦後は(自分たちの親玉がドイツにやられているので)反ドイツの姿勢を明らかにし、同年9月には自由フランスとフランス共産党との提携が実現した(ド・ゴールがソ連と組みたがっていたのは前述の通り)。他のレジスタンス組織としては社会党系の「北部解放」、キリスト教民主党系の「闘争」、ドイツ軍への徴用を嫌って山岳地帯へ逃れた若者による「マキ」等が存在した。しかしこれらの組織は横の連携がとれておらず、特に、前述のような純粋な政治的理由によって自らの去就を決めていた共産党にたいする反発が激しかった(註9)

 註8 信じ難い話だが、「クレムリンの長女」と呼ばれるほど親ソ的なフランス共産党としてはやむを得ない措置であった。しかし全然抵抗しなかった訳ではなく、その書記長はヴィシーの弾圧を受けてモスクワに亡命していた。

 註9 アルベール・シャンボン著『仏レジスタンスの真実』はそのあたりの共産党の態度を厳しく糾弾している。

 しかも当初、レジスタンスの特に左派はド・ゴールが右翼的な信条を持つことから自由フランスに懐疑的(嬉野ド・ゴール伝)であり(註10)、両者間の連絡もなかったが、41年秋にはレジスタンスに参加する社会党・急進社会党議員が極秘裡にロンドンを訪れ、42年始めをもってフランス国内に「ド・ゴール代表部」が設置されるに至った。ド・ゴールは自らが「主権国家フランスの代表」としての地位を維持するためには国内レジスタンスの広範な支持が必要であると考え(前掲書)、全ての組織を自分のイニシアティヴのもとに統合すべく、元県知事で左派政党にも人脈を持つジャン・ムーランなる人物をフランス本国へと送り込んだ。

 註10 ド・ゴールの周囲には左翼的な大学教授や組合活動家も少数ながら存在し、自由フランスは政治的にはかなり雑多な集団であった。首脳部は自分たちの団結にヒビが入るのを恐れて政治的な議論を避けていた(自由フランスの歴史)が、全体的には右派が優勢ではあった。

 42年1月1日夜、たった1人パラシュートでフランス本土に降り立ったジャン・ムーランは直ちに精力的な活動にとりかかり、翌年1月にはヴィシー政府の統治する自由地区におけるレジスタンス諸派を「統一レジスタンス運動」へと統合するのに成功した。同じ頃にはフランス北部・大西洋沿岸のドイツ軍占領地区におけるレジスタンス諸派の方も、自由フランスの「情報行動中央局」による統合が進められ、43年5月には全フランスの16団体(8組織・6政党・2労組)を結集する「全国抵抗評議会」が結成されるに至った。組織者ジャン・ムーランはこの1ヵ月後にはドイツ軍に逮捕され、拷問で殺されてしまうが、とにかくフランス本国におけるレジスタンスは軌道に乗り、ドイツ軍・ヴィシー政府への抵抗を本格化させるのである(註11)

 註11 かように「全国抵抗評議会」はド・ゴールの肝煎りで結成されたものではあるが、ジャン・ムーランの死後はド・ゴールの意志とは無関係にジョルジュ・ビドーを議長に選出し、それがド・ゴールから独立した機関であることを明確化していく。(新版フランス史)

 しかし、すべてのフランス人がドイツ軍への抵抗へと身を投じた訳では決してない。ヴィシー政府は相変わらず対独協力を続け、それによってドイツから相応の待遇を引き出そうとしていた。ヴィシー政府への参加者たちは、ナチスの主張に魅了された人々もいれば、生きていくためにやむをえず、という人々もおり、積極的な協力派のなかにも抗争が存在した。しかしいわゆる「名士」はその多くがヴィシーに協力し、その点ヴィシー政府主席のペタン元帥は人々の信頼と安心を呼び寄せ得る格好の人格者であった。後にド・ゴールは語った。「私が自由フランスを結成しロンドンから対独戦続行の呼びかけをしたとき、このフランスを救済せんと駆けつけたものたちは何の繋類もない若者たちや小舟ひとつのブルターニュの漁夫たちであった。フランスと自分の地位・財産のどちらかを選択しなければならなくなったとき、多くのものは後者を選択したのである。勿論、議会人など1人も来はしなかった」。

 これはちょっと酷な言い方だが……しかしヴィシーに対するドイツの要求は甘くなく、フランスは1日4億フランの供出を義務付けられ、さらにドイツへの労働力の提供を求められた。これは最初は単なる募集であったのが42年には要求が厳しくなったため、43年1月に強制労働徴用が導入され、数十万の若者がドイツへと送られたのである。

 ただ、こういった経済的な対独協力は敗戦国としてはある意味仕方がないとはいえ、後々まで深刻な影響を及ぼしたのが、ヴィシー政府によるユダヤ人政策である。ヴィシーはドイツ軍占領地区でのユダヤ人狩りに協力し、ヴィシーの自由地区でもユダヤ人の一斉検挙を行ったりした。第二次世界大戦が終結して50年も後の1993年、かつてのヴィシー政府の警察長官ルネ・ブスケが自宅前で射殺されたが、彼は熱心な対独協力派として、1942年7月16日にパリのユダヤ人1万3000人の一斉検挙を行った人物であった。また、ドイツ軍に協力してレジスタンス活動員の逮捕を行うフランス人もおり、ドイツ軍将兵がレジスタンスに殺された時の報復(殺されたドイツ人1人につき一定数のフランス人収監者を処刑する)に協力したのもヴィシー政府であった。

 しかし、確信的な反ユダヤ主義者やファシズムの信奉者が多数存在したとはいえ、基本的にはヴィシーの対独協力はあくまでドイツの歓心を買うためのものであり、ペタン元帥も、フランスが再び戦場になることを回避し、ドイツとも諸外国(例えばアメリカ)とも友好関係を保とうと努力していた。国民の多くも、元帥はつまり二股をかけているのであって彼は彼なりに抵抗しているのだろうと好意的に解釈していた(対独協力の歴史)。大戦にかんして極力中立の立場を堅持しようとし、現実にヴィシーは世界のほとんどの国に承認されていた。しかしそれはヴィシーの努力が実ったというよりも、ドイツの都合によるところが大であった。ドイツ外相リッペントロップは語った。「ドイツの利益に鑑みれば、国力を弱体化させてフランスを存続させる一方、同時にドイツに敵対する諸国からフランスを隔離することが必須である」。「当面、フランスを中立化させておかなければならない。フランスにイギリスの手の届かないところで艦隊を保有させ、フランスが植民地の防衛を自らの手で行うようになれば、ドイツにとっては得策だろう(前掲書)」という訳で、ヴィシーの積極派が(ペタン個人の意向とは別に)時に持ち出す軍事協力も、ドイツの方に制限を加えられるという有り様であった。

   

   ジローとダルラン   (目次に戻る)

 1942年6月、北アフリカのドイツ軍を背後から攻撃し、かつ西地中海を米英連合軍の勢力圏下におくこと等を主眼とする北西アフリカ上陸「トーチ」作戦が立案された。作戦の舞台となるモロッコ・アルジェリア・チュニジアはいずれもフランス植民地で、しかもヴィシーに忠誠を誓っていた。おまけに現地ヴィシー軍40万に対して連合軍が用意出来るのは11万3000がやっとである。

 イギリスはともかくアメリカはヴィシーと国交を保っている。そこで今回の作戦に際しては、イギリス主体だと確実に激烈な抵抗を受けるので、親ヴィシー的なアメリカが主体となって極力ソフトに行動する……ヴィシー植民地を占領する(ヴィシー軍と戦う)のではなく、ただ単にアメリカが北西アフリカにドイツと戦うための拠点をつくるのだ、というポーズをとる……ことによって、なるべくヴィシー軍との衝突を回避することが検討され、さらに、現地ヴィシー軍を説得して米英軍に帰順させる役目を、誰か権威あるフランスの将軍にお願いすることが考えられた。

 ド・ゴールは駄目である。ド・ゴールはこれまでにダカールやシリアのヴィシー軍を説得することが出来なかったという前科があるからである。今回の作戦に自由フランスが参加すれば、ヴィシーが過剰に抵抗することは目に見えている。かわりにアメリカ国務省が探し出したのがアンリ・ジロー大将なる人物である。(註1)

 註1 その前にペタン本人に密使を送って事情を説明したが、拒絶された。

 ジローは40年の対ドイツ戦の際にドイツ軍の捕虜となっていたが、収容所から脱走してその後はヴィシーに匿われていた(註2)。アメリカ国務省の打診(註3)を受けたジローはすぐに計画に同意し、「トーチ」作戦決行の2日前に南フランス海岸でイギリスの潜水艦に拾われて、イギリス領ジブラルタルまでやってきた。ところがこの時、たまたま、アルジェリアに「ヴィシーの陸海空軍総司令官」フランソワ・ダルラン提督がいたのである。

 註2 ヴィシーもそれくらいのことはやる。しかし『ド・ゴール大戦回顧録』では、ジローはドイツがヴィシーに送り込んだスパイである可能性がある、と悪意をもってほのめかしている。

 註3 アメリカとヴィシーとは国交があるのでかような交渉も楽である。

 米英軍にとって、ダルランの存在は予想外であった。ダルランは小児麻痺でアルジェリアの病院に入院した息子を見舞いにきていたのであるが、病気が軽いことから11月10日には本国に帰るつもりでいた。しかし、「トーチ」作戦は11月8日に決行の予定とされており、ここで米英軍がダルランを抱き込むことが出来れば、その重要性はジローの比ではない。最近までドイツの捕虜収容所にいて今も何の官職も持たないジローと違い、正式にヴィシー軍を代表するダルランは特に海軍に強力な指導力を有しているのである。

 アメリカ海軍と情報部がダルラン説得に動いた(註4)。ダルランはなかなか動かなかった。一方のジローは、「トーチ」作戦以降の自分の役割が思っていたより低い(註5)ことを知ると、「作戦には協力出来ない」とゴネだした。2人の説得に手間取っている間に時間がすぎ、ついに「トーチ」作戦発動の11月8日が訪れた。

 註4 それ以前から動いていたとの説もある。そもそもこの時「たまたま」アルジェリアにいたこと自体が、すでにダルランが米英軍に寝返る決意を固めていたのだとする考えもある。

 註5 自分が連合軍の最高司令官となってフランスを解放するつもりでいたという。

   

   「トーチ」作戦   (目次に戻る)

 「ロバートが到着!」「ロバートが到着!」ラジオが「トーチ」作戦開始の合図をがなりたてた。11月8日、米英連合軍は一斉にフランス領北西アフリカへの上陸を開始した。ルーズベルト米大統領はペタン元帥に親書を送った。「アメリカは他国に対し何の領土的野心も抱いていない」。

 ペタンは困った。もしこのまま北西アフリカを米英軍に渡せば、怒ったドイツ軍がフランス南部の自由地区にまで雪崩れ込んでくる。とりあえず北西アフリカのヴィシー軍に対し(米英軍に対する)防戦命令を下す(とはいえ対米宣戦はしなかった)一方で、いっそヴィシー手持ちの兵力を率いてドイツに宣戦布告しようと考えたとも言われるが、結局この決断は下されず、そのうちに最悪の事態、つまりドイツ軍による自由地区の占領が実行された(註1)。ヴィシー政府の閣僚の一部には、ドイツ軍にさらに積極的に協力することによってヴィシーの主権を守ろうとする動きも存在し、その1人ラヴァルはドイツ軍にヴィシーの全商船を提供することを申し出たが、ドイツはヴィシーを信用せず、(ドイツの)リッペントロップ外相いわく「我々は独仏協力をあてにする必要はないのだ」。ヒトラー総統は「フランスの主権は(形だけ)今後も認めてよいだろう。しかしそれは我々の利益に役立つかぎりにおいてにすぎない。我々の軍事的必要性と一致しなくなったときには、それもすぐに剥奪されるだろう」と冷たく言い放った。

 註1 米英軍による北西アフリカ上陸に対抗するため、地中海沿岸を固めようとしたのである。

 ヴィシー政府はドイツ軍の占領下になんとか形だけの存続を認められたが、占領税は1日5億フランに増額され、軍隊も北西アフリカで米英軍と戦う部隊のみに限定された。ヴィシーの閣僚ラヴァルはヴィシーが実質的に滅んだ現実を意地でも認めようとせず、国民に対して「これは新たな出発なのだ。新たなチャンスが与えられたのだ」と言い張った。ヴィシーに乗り込んできたドイツ軍の司令官ルントシュテット元帥に対し、ペタンは第一次世界大戦時の軍服と全ての勲章を身に付けて精一杯の抗議をしたが、全ては無駄であった。

 この前後の北西アフリカでは、現地のヴィシー軍が米英軍への抗戦を続けていた。モロッコのカサブランカでは、ドックで艤装中のヴィシー戦艦「ジャン・バール」とアメリカ戦艦「マサチューセッツ」とが激烈な砲戦を交え、チュニジアではその(ヴィシーの)総督エステヴァ提督が、リビアのドイツ・イタリア軍にチュニジアに入ることを許可していた。9日、ようやく説得に応じたジローが北西アフリカに到着したが、現地のヴィシーの高官たちは彼を完全に無視してしまった。こうなると問題はダルランの動きいかんにかかってくる。

 11月10日、ダルランがアメリカ軍の説得に応じた。「現地フランス軍は米軍と合同して対独戦を実行する」。「ヴィシーの陸海空軍総司令官」フランソワ・ダルラン大将という大物がそう断言し、本国の自由地区が不当にドイツ軍に占領されてしまった以上、北西アフリカのヴィシー軍がそのドイツに義理立てする必要はなくなった。米英軍を相手にそれなりに奮戦したことでフランスの名誉もいくらかは守れたとも考えられた。現地ヴィシー軍はダルランの停戦命令に従い、かくして北西アフリカにおける戦闘は一応の終息をみた。一連の戦闘における米英軍の戦死者は約700人、ヴィシー軍の死者も同程度であったが、艦船の損害は米英軍の32隻沈没に対してヴィシーのカサブランカ艦隊はほぼ壊滅していた。

 それから……少し話がそれるが、フランス本国のツーロン港にいたフランス地中海艦隊約100隻であるが……2年前のドイツとの休戦協定以来、ほとんど何もせずにただじっとしていたこの艦隊に対し、(英仏軍と停戦した)ダルランは至急出港して自分のところに来るよう命令を下すことにした。その際には、もはや味方になったイギリス艦隊が護衛につく……と添えて電文を送ったのだが、ツーロン港のド・ラボルデ提督(大のイギリス嫌い)はダルランの命令を拒否し、しかし接収にやってきたドイツ軍も断固としてはねつけ……指揮下の艦隊を自沈させた。ド・ゴールはこの事件について「不毛な自殺」と言い捨てている。

 ……ともあれ、「トーチ」作戦終了後に行われた首脳会談によって、ダルランはフランス領アフリカの総督並びにアフリカにおけるフランス軍の総司令官、ジローはその地上軍及び空軍の司令官に就任することで話がついた。本国のペタン元帥はダルランを罷免すると発表したが、実はダルランの停戦受諾の裏にはペタンの意向が働いていたとの説が有力である。しかしペタン本人は……この時は飛行機で北西アフリカに行こうと思えば行けたのだが……あくまでドイツ軍の占領下にとどまり、「私にとっての名誉は、不幸な国民の間にあって、軍隊もなく、艦隊もないまま、このポストにとどまり、危険に立ち向かうことである」と声明した。

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