中世ヨーロッパの大学

 西ローマ帝国の滅亡後、西欧の学問は長い停滞を続けていた。書き言葉と話し言葉が違う(前者はラテン語)ので学問の習得には時間がかかり、領主の権力や都市の規模が小さいので高度な学問(例えば体系的な法律)はあまり必要とされていなかった。古代ギリシア・ローマ時代の優れた学問はイスラム圏やビザンティン(東ローマ)帝国に保存されていた。

 しかし西欧でも12世紀に入って都市の発展が著しくなり(すると法律といったものが必要になる)、イスラム圏との交易が活発化すると、そちらを経由する形で古代の著作がもたらされるに至る。アリストテレスやユークリッド、ヒポクラテスといった哲学・数学・医学等の大学者の著作やローマ法がそれである。その多くは原書ではなくアラビア語版から西欧の言葉(ラテン語)に翻訳された。ローマ法に関しては、このころ激化していたローマ教皇と神聖ローマ皇帝との抗争に際し、自分の陣営を法的に正当化する根拠として求められたという側面があった。医学については、早くも11世紀の中頃には南イタリアのサレルノにヒポクラテスを始めとする古代ギリシアの医学を教える医学校が存在した。これは北アフリカのチュニジアにイスラム教徒として生まれて後にキリスト教に改宗したコンスタンティヌス・アフリカヌスが始めたものとされ、一般に「サレルノ医科大学」と呼ばれているがこの学校の初期の組織についてははっきりせず、これから語る「大学制度」に関しては後世に何の影響も与えていない。

 それから、西欧の宗教界には古代以来のゲルマン・ケルト的伝統が強く残っていたのだが、11世紀頃にはそれらは概ねローマ・カトリック教会によって飲み込まれていた。西欧全土に教区を張り巡らせるようになった教会はこれらを統御する学識ある知識人を大勢必要とした。

 かくして12世紀に入る頃にはフランスの各地に司教座教会付属神学校が、イタリアの各地に法学校が発達することとなった。フランスとイタリアの学校の大きな違いは、前者が教会組織の一部だったのに対して後者は世俗の学校であったということである。教会附属の学校はそれ以前からあったのだが、その多くは読み書きと暦法を教えるのみで、高等教育を教え得る学校は数も少なく、しかも個々の先生の能力に頼るのみであった。例えばランの学校は「スコラ学」のアンセルムスが教鞭をとっていた時期だけが有名であった。ところが、やがてこれがどの学校も生徒で溢れかえるようになり、教育の水準もあがってくるのである。

   ボローニャ大学

 イタリアの法学校の中で特に有名になったのが、ボローニャの学校である。ここには12世紀初頭にイルネリウスという学者が現れてローマ法の注釈を行い、続いて1140年頃にグラティアヌスという人物が教会法の教科書を執筆した。いつの頃からかボローニャにはイタリアのみならずドイツやフランスからも法律を学ぼうとする人々(つまり学生)が数百人も群れ集まるようになっていた。遠方から単身やってきた学生たちは、まず、下宿代や生活必需品の値段をつり上げるボローニャ市民に対抗するために「組合(ウニヴェルシタス)」を結成した。これが現在に至る「大学」のそもそもの起源である。当時の学校は定まった建物を持っていなかったので、下宿代を下げなければ学生一同で他所に引っ越すことも簡単だと言われた町の人々は(学生に退去されて一銭も入らなくなるより安値でも入った方がマシだと)やむなく学生の要求を飲むことにした。学生は出身地ごとに「国民団」を編成し、最初は4つ、後には2つのそれを設置した。学生の大半はかなり歳をくっており、実家が貴族階級という者もいたことから交渉ごとが得意であった。

 教授たちは嫌々ながらも学生の動きに従った。教授は学生の支払う授業料がないと生活出来ないからである。さらに学生は教授に対して授業料相応の講義を要求した。許可なしの休講厳禁、5人以上の学生を集められないレベルの低い講義は休講とみなして罰金、時間厳守、教科書の記述を飛ばして教えること禁止、だからといって序論とかに時間をかけすぎることも禁止、難問もきちんと教えるべし、ボローニャの外に出る時には必ず戻るという保証(実際、逃げたことがあった)を行う、等々。文句があるなら授業放棄である。「学長(レクトル)」は学生の組合長(国民団の長)であり、このことからボローニャは「学生の大学」と呼ばれている。

 ちなみにボローニャ市は大学が他所に流出することを防ぐため、教授に、学生が他市に移ろうとした場合(そうやってボローニャ大学から分裂して出来た大学もある)これに一切援助を与えないこと宣誓させ、それのみと引き換えに(この市の出身者であろうがなかろうが)ボローニャ市民権を与えることにした。その頃のローマ教皇と神聖ローマ皇帝との抗争に際して、ボローニャ市は教皇派、教授たちは皇帝派であった(と、少なくとも市当局には見られていた。教授たちの教えるローマ法というのは本来は皇帝の権威を確立するための法体系であったからである)のだが、12世紀の末頃には教皇が優勢になっていたことがこの動きの背景となった。

 教授たちは自分の学問の質を維持しつつ学生に対抗するために「教師組合(カレッジ)」を結成した(註1)。これに入るためには試験にパスする必要があり、この試験が「教授免許」の始まりとなった。学生は別に教授になるつもりがなくても大学で立派な学問を修めたことの証拠としてこの免許を求めるようになる。つまり「学位」の発生である。ボローニャ大学ではそのうちに自由学科(註2)や神学・医学も教えるようになるが、その名声はやはり法学によるものであり、イタリアの他の都市や南フランス、スペインでもボローニャを真似た大学組織が誕生することになる。

註1 現在ではカレッジとは単科大学のことだが、ここでは意味が違う。

註2 文法・修辞学・論理学の「三学」と、算術・幾何学・天文学・音楽の「四科」のあわせて7科がある。当時の学問の基礎。


   パリ大学

 ボローニャとは逆に、教授が主導権を握っていたのがパリ大学である。ここはノートルダムのパリ司教座教会付属神学校を起源としており、12世紀前半にアベラールという神学・哲学者を出して評判となった。歴代ローマ教皇の多くがこの学校の出身である。最初はノートルダム寺院のあるシテ島で講義を行っていたがその後現在のカルチエ・ラタン(現在でもパリの学生街)へと移っていった。教授の組合……1170〜80年頃に成立……は人文(註2で説明した自由学科を教える)・神学・医学・法学の4学部にわかれており、学生は人文を修めなければ他の課程に入ることが出来ない仕組みとなっていた。

 そんな訳で人文学部の規模が最大であり、これに属する教授は4つの「国民団」を組織してそれぞれの「学部長(ディーン)」を持っていた。大学全体の学長は人文学の学部長の互選で選び、神学や法学の教授は、学問はともかく政治的にはそれほどの力を持たなかった。ボローニャでは学生は他所者の集団、教授はボローニャ市民権を持っていたことから両者の関係は緊張をはらんでいたが、パリでは教授も他所者のままであったことや、こちらの学生はボローニャのそれと比べると若造で貧乏人が多く、世知に長けていなかったことから、特に教授・学生間の対立は存在しなかった。

 あとパリの学校の特色に「学寮(カレッジ)」がある。これはボローニャのカレッジとは全然意味が異なり、学生の教室兼寄宿舎を指す語である。もともとは金持ちで気前の良い人が貧乏学生に与えた小屋だったのがやがては(そもそも学校側に決まった建物がないので)講義もここで行うようになったものである。最古の記録では1180年に登場する。学寮は厳格な規律を持ち、起居する学生に制服の着用を義務づけた。特に有名な学寮は13世紀の宮廷礼拝堂司祭ソルボンが建てた「ソルボンヌ学寮」で、これが後にはパリ大学神学部の代名詞にまでなった。

 パリ大学は教会付属学校から発展したものに相応しく、教授も生徒も大半が聖職者身分に属していた。聖職者は何か法的な問題が起これば出身地の教会の裁判に服するが、遠方からパリに来ている大学関係者に対する裁判権を誰に与えるかという問題が発生した。1200年、ドイツ人学生の侍僕が酒場で侮辱され、そこから起こったパリ市民・パリ市警察と学生との乱闘で学生5人が死亡するという事件が起こった。学生・教授は団結してフランス国王フィリップ2世に訴え、乱闘で学生を殺した犯人を処罰しなければ全員でパリを退去すると言い出した。フィリップ2世……自分の治める国で学問の府が発展するのは基本的には喜ばしいことだと考えていた……は犯人を逮捕し、「警官は現行犯以外に学生を逮捕出来ない。その場合も身柄を教会に引き渡す」「学生は聖職者身分でなくとも聖職者扱いにしてパリ司教の教会裁判権のみに服する」との特許状を発行した。「パリ大学」はこの時をもって正式に発足したとされている。

 今度はパリ司教との関係が問題となる。パリ大学はもともとここの付属学校なので、パリ司教座教会の印璽の保管や記録の保持を担当する「文書局長(チャンセラー)」が教会付属学校の管理を行い、教授免許の発行や学生の管理も牛耳っていた。文書局著はささいなことで学生を逮捕し、釈放のための金をとった。大学とパリ司教はたびたび対立したが、大学にはローマ教皇が味方についた。前述のとおり歴代教皇にはパリで学んだ者が多かったことから大学に同情的であったし、その頃はヨーロッパの各地で異端(カトリックと対立する教派)が盛んであったから、優れた学者を大勢抱える大学を味方につけるのは教皇にとって得策であるとも思われた。1212年にはインノケンティウス3世教皇が、人文学部の教授免許の発行に関して教授の大多数が賛成したならば文書局長はこれを拒否することは出来ないとした。明らかに必要な場合を除いて投獄も不可となる。

 1219年にはパリ司教が大学全体を破門するという事件が起こった。大学関係者にはこれを解く資格を持つ者がいない。そこでホノリウス3世教皇が破門を解く資格を持つ「聴罪司祭」を送り込むことにした。これでパリ司教は破門を脅し文句にして教授・学生に言うことをきかすことが出来なくなった。もっともそのおかげでパリ大学の神学研究はローマの制約を受けることとなったが。(しかし14世紀に入る頃には教皇の権威が衰えていき、パリ大学の特権も1499年にフランス国王ルイ12世によって剥奪されてしまうのであった)

 ともあれ、後発の大学の多くはパリ大学をその組織のお手本とした。こことボローニャに発生した、勉学のための整備されたカリキュラムを持ち、学位を与える資格を有する教授と、そこで学ぶ学生とがある程度の自治を行う組織、が、今に続く「大学」の起源ということになっている。

   教授と学生

 パリやボローニャのように自然発生的に成立した大学としては、イングランドのオクスフォード大学や、南フランスのモンペリエ大学がある。既存の大学から分裂したものとしては、ボローニャから分裂したパドヴァ大学、パリから分裂したオルレアン大学、オクスフォードから分裂したケンブリッジ大学といったものがあった。特定の個人が創設した大学としては、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が1224年に設置したナポリ大学、ローマ教皇が1229年に設置したトゥールーズ大学があるが、こういうのはあまり流行らなかった。ちなみにトゥールーズ市のある南フランスはその頃カタリ派という異端宗教が盛んであり、トゥールーズ大学の設置はこれを撲滅するという意図があった。1250年頃に存在した大学は12前後であったという。パリ大学には既に述べた通り人文・神学・法学・医学の4学部があったが、他の大学は2〜3の学部しかないのが普通であり、大抵は神学部が欠けていた。これは、ローマ教皇がパリの神学部だけを優遇しようとしたからである。

 パリ大学には3000〜5000人、ボローニャ大学には2000人、オクスフォード大学には1500人の学生がいた。学位には学士号と博士号の2段階があり、ボローニャでは学士号を取得する試験の費用は60リーヴル、博士号では500リーヴル以上が必要であった。試験官に様々なプレゼントをしなければならなかったからである。人文学の学士になるには6〜8年、医学は3年、法学は10年近くかかり、最も時間のかかる神学では15年を要することもあった。学部の中では人文学が最も経費がかからず、特に神学部のある大学だと教会から聖職者としての禄(給与)が貰えるチャンスがあった(小額だったようだが)ことから貧乏学生が大勢おしかけた。とはいっても、学生のうち学士になれるのは15〜20人に1人程度であったという。

 大学に入るには特に試験といったものはなかったが、登録料は必要であったし、教科書も講義も全部ラテン語であったことから、前もって最低でもラテン語をマスターしていなければならなかった。これは都市や教会の運営する学校(8歳ぐらいから入学した)や、家庭教師に教わった。大変と言えば大変だが、どの大学にも全ヨーロッパから人が集まってくることを考えれば、ラテン語は格好の共通語であった。パリ大学には13歳ぐらいから入学する者が多く、ボローニャの1年生は18〜25歳ぐらいであったという。パリとボローニャで差があるのは、パリの学生はまず人文学部に在籍する必要があった(でないと神学や法学に進めない)のに対し、ボローニャの学生は余所で(あるいは家庭教師に習って)人文学系の勉学を終えた上でボローニャにやってきたから、ということらしい。パリでは、人文学部の教授をやりながら神学や法学の学生をするという例も多かった。大学の規模が拡大してくると、その周辺に「文法学校」が並び立った。つまり大学の予備部門が発生した訳である。

 授業は、教授が様々な著作を注釈しながら読み進める「講読」と、教授の出す論題について学生たちが2組にわかれて議論する「討論」の2つがあった。教授は討論を週に1度は行う義務があり、年に1度か2度は大学の外の聴衆を集めて公開討論を開催した。授業に用いるテキストは、人文学部ならアリストテレスやドナートゥス、法学部なら『ローマ法大全』やグラティアヌスの『教令集』、神学部なら聖書やペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』、医学部ならヒポクラテスやガレノスの著作であった。

 教科書は高価であった。この時代の大学には図書館がなかったため、教授・学生は書籍商に規定の料金を払って本を借り、写字職人に筆写させた。例えばボローニャ大学では教授の年収は150〜200リーヴルであったが、1冊の本を筆写するのには挿絵なしでも20〜60リーヴルかかったという。パリ大学のとある神学教授は1人で300冊の本を持っていたといい、金持ちの子弟が多かったボローニャの法学生は勉学を終えて故郷に帰る時には10〜30冊の写本を持っていたというが、大抵の学生はそんな具合にはいかなかったようである。書籍商や写字職人、それから医学部のために働く薬剤師や理髪師は大学のお抱えとしてその保護を受けていた。貧乏な学生(あるいは教授)の中には写字職人のアルバイトをする者もいた。

                                おわり

   参考文献

「大学」 森洋著 『岩波講座世界歴史10』 岩波書店 1970年
『中世ヨーロッパ』 堀米庸三責任編集 中央公論社世界の歴史3 1974年
『大学の起源』 C・H・ハスキンズ著 青木靖三・三浦常司訳 社会思想社現代教養文庫 1977年
『ヨーロッパ中世』 鯖田豊之著 河出書房新社世界の歴史9 1989年
『フランス中世の社会 フィリップ・オーギュストの時代』 アンリ・リュシェール著 木村尚三郎監訳 東京書籍 1990年
『フランス史1』 柴田三千雄他編 山川出版社世界歴史大系 1995年

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