デンマーク戦争

 デンマークはドイツの北に突き出すユトランド半島の北部・中部とその東に散らばる島々を主要な領土とする国である。そしてユトランド半島の南部に位置するシュレスウィヒ、その南のホルシュタインという2つの公国も1460年以来デンマーク王国との同君連合という形でその支配を受けていた。ところが実は、ホルシュタインの住民はデンマーク人ではなくドイツ人が多数派を占め、シュレスウィヒも住民の半分はドイツ人であった。

 ドイツは長いあいだプロイセン・オーストリアにその他多数の中小諸国が分立して政治的統一がなく、いちおう1815年に35君主国と4自由市を集めた「ドイツ連邦」を結成してはいたがその実態は乏しいものであった。ドイツの統一は求められてはいたが、その場合にプロイセンとオーストリアの2大強国のどちらがイニシアチブを握るかで抗争が続いていた。その他のドイツ連邦内の中小諸国もそれなりの勢力を保っていた。とにかくドイツを統一する場合、当然のことながらホルシュタイン・シュレスウィヒもこれに含みたいと考えられた。

 1848年、ホルシュタインとシュレスウィヒの2公国内のドイツ人が反乱を起こしたが3年がかりで鎮圧された。52年に諸国が開いた国際会議で定められた「ロンドン議定書」により2公国はデンマーク王国との同君連合たることが確認され、さらに両公国は分離しないものとされた。これは、ドイツ諸国の民族主義者には面白くない話である。

 ところが63年、デンマーク国王フレデリック7世は2公国のうち北のシュレスウィヒを分離してデンマークに併合する(同君連合ではなく完全にデンマークの一部にする)と言い出した。もちろんドイツ諸国が反発したが、デンマークの側にはスウェーデン国王が味方についており、イギリスも好意的なように見えた。フレデリック7世はこの年のうちに急死するが、跡を継いだクリスティアン9世もそれを確認した。ドイツ諸国はデンマークへの制裁を決議したが、デンマークの味方につくはずのスウェーデン国王は閣僚の反対にあって身動きがとれなくなってしまった。ドイツの中小諸国はとりあえず2公国をデンマークから独立させようとした(48年の2公国の反乱を指導したアウグステンブルク公という人物の息子がこの時に2公国の主たることを宣言したため、ドイツ中小諸国はこれを承認した)。デンマークは12月とりあえず南のホルシュタインについてはこれを明け渡し、ドイツ諸国のうちハノーバーとザクセンの軍隊が現地に進駐した。

 プロイセンでは前年にオットー・フォン・ビスマルクが首相となっていた。彼はこの機会にプロイセンが2公国を併合すべきと考えた。それだとデンマークと変わりない(プロイセンもドイツ人の国だからまだ良い選択だが)ので他のドイツ諸国の反発が予測されたが、この問題を通じて中小諸国の発言力が増すことを警戒したオーストリアを味方に引き込むことに成功した。プロイセンとオーストリアはドイツ統一の主導権争いで日頃仲が悪いのに、珍しく同盟が成立した訳である。

 翌64年1月16日、プロイセン・オーストリアはデンマークに対し、シュレスウィヒ併合を48時間以内に撤回せよとの最後通牒を発した。デンマーク国王は受け入れる旨を示したがそのための議会の決議を取るのに6週間が必要と返答した。しかしプロイセンはそれを待つ気はなくオーストリアと共にホルシュタインに軍隊を派遣した。もっとも準備もあるので48時間が過ぎたらすぐ開戦という訳ではなかったが、6週間も待ってやる義理はない。

 以下に述べるのはホルシュタインに入ったプロイセン・オーストリア連合軍の布陣である。ホルシュタイン・シュレスウィヒの境界線近くに3群に分かれて展開する。まずバルト海の港町キール付近に位置するプロイセン第1軍団、その司令官はフリードリヒ・カール親王、戦力は兵士2万4000人と大砲110門である。その西のレンデスブルグ付近に位置するのがオーストリア第2軍団の兵士2万と大砲55門で、司令官はガブレンツ元帥である。その西にはフォン・デ・ミルベ将軍の率いるプロイセン近衛師団の兵士1万500と大砲16門がいた。総計5万4500と大砲約180門である。そしてオーストリアのテゲトフ提督の率いる海軍がいる。全軍の総司令官はプロイセンのウランゲル元帥であった。

 デンマーク軍もシュレスウィヒ南部の備えをしてはいた。その戦力はメザ将軍の率いる兵士4万と大砲約100門である。シュレスウィヒ市の南西のダンネウェルクにある堅固な陣地を中心とし、そこからユトランド半島の東西の海岸まで全長70キロに渡って薄く長い防御を施していた。中心のダンネウェルクに1個師団、その西に右翼隊1個師団、東のシュレイ川に沿って左翼隊1個師団、それから右翼隊の背後に1個旅団という具合である。出来るだけ戦いを長引かせて他国の介入(他国がプロイセン・オーストリアに抗議してくれると踏んでいた)を待ち、情況によっては北に退いてフレンスブルグ付近の第2陣地、あるいはさらに北のコルジング付近の第3陣地に籠ることにしていた。

 デンマーク側のそのような戦略は連合軍もわかっており、他国が動き出す前に速戦即決でかたを付けるつもりでいた。

 そして1864年2月1日、「最後通牒の期限までに回答がなかった」として連合軍が進撃を開始した。「デンマーク戦争」の勃発である。デンマーク軍の警戒部隊を駆逐しつつ北上したプロイセン軍はしかし翌日ミッサウンド付近でシュレイ川を渡ろうとしたところで食い止められた。オーストリア軍及びプロイセン近衛師団は敵の主陣地ダンネウェルクを攻撃する準備を整えた。プロイセン軍(近衛師団でなく主力の方)はミッサウンド付近からのシュレイ川渡河を諦めてその東のアロイス(シュレイ河口近く)から改めて5日に渡河を行うことにした。その準備に手間取ったプロイセン軍は予定より1日遅れて6日に渡河を果たしたが、デンマーク軍はそのとき既にフレンスブルグの第2陣地に総退却していた。

 デンマーク軍は7日にはそのフレンスブルグも捨て、メザ将軍指揮下の本隊はその北東のバルト海岸ジッペルの陣地に、ヘッケルマン将軍の歩兵騎兵1個師団はコルジングの第3陣地にまで退いた。ジッペルとその対岸のアルセン島はデンマーク領の島嶼部の西側を守る重要拠点であった。とはいえ、こんなに後方まであっさり退却したメザは総司令官職を解任されてしまったが。

 対してプロイセン軍はジッペルを、オーストリア軍・プロイセン近衛師団はコルジングの攻撃を担当することにした。が、ここまでは戦場はシュレスウィヒ公国内に限定されておりコルジングの位置するユトランド州(完全にデンマーク固有の領土)には他国の介入を呼び込まないよう進入しないことになっていたのだが、2月17日プロイセン近衛師団が独断で越境、コルジングを占領してしまったことからオーストリア軍も3月8日からこれにならった。プロイセン近衛師団はさらにコルジング北東の港町フレデリキヤの攻略に向かい、オーストリア軍はコルジング北のベイレ付近にいたデンマーク軍を打ち破った。

 さてジッペルではデンマーク軍は3キロの正面に10個の陣地を構えていたが、その堅固な様子を偵察したプロイセン軍はこれに向かって少しづつ陣地を前進させて迫っていくという作戦を立てた。これは「史上初の塹壕戦」とされている。開戦当初に見込んでいたような即戦即決とはいかなくなったのである。もっとも、デンマークが望みをかけていた他国の介入はビスマルクの外交手腕によって防がれたが。

 ともあれ、こんな風にデンマーク軍がジッペルのようなユトランド半島東岸の陣地に籠ってしまうことはプロイセン軍内部でも事前に危惧していた者がいた。参謀総長モルトケである。モルトケは最終的には敵首都コペンハーゲンのあるゼーランド島への上陸作戦を目指したいとし、そのためにはジッペル等の半島東岸の港町をデンマーク軍に固めさせてはならず、それを防ぐためには連合軍の針路は最初から半島東海岸に沿うものでなければならないとの進言を行っていた。しかし総司令官ウランゲル元帥はこのモルトケ案を無視し、序盤でシュレイ川を渡る時に河口(半島東岸)のアロイスではなく上流のミッサウンド付近から渡ろうとして果たせず、やむなくアロイスから渡った時には既に退却していたデンマーク軍に半島東岸の防備を固める余裕を与えてしまったという訳である。

 ちなみにモルトケは実はデンマークの幼年学校・士官学校の出身なのだが、その頃のデンマーク軍は余剰人員が多くて出世の見込みが立たないことからプロイセン軍に乗り換えたという人物である。ここで少し話をそらしてプロイセンの軍制のことを書く。

 18世紀末〜19世紀初頭のナポレオンの時代に急激に巨大化した軍隊は1人の指揮官ではとても動かしきれないため、兵員の補充や補給、各部隊への命令の伝達・監督、といった雑務を専門に行う「参謀」が重視されるようになってきていた。つまり前線で直接戦闘を行う「ライン」と、それを支援・管理する「スタッフ」の分離である。スタッフの一部はそのうちに平時からあらゆる事態を想定した作戦を考えておく常設の「参謀本部」へと進化した。プロイセンでは19世紀初頭から軍事関係の最高機関として人事・経営・武器等々を行う「軍事省」が存在しており、参謀本部の前身はその一部門として地図の作成から他国軍隊の研究、平時であっても常に戦時を想定した作戦計画の立案といった仕事を行っていたが、この組織は1825年に人事上の問題から軍事省から独立した機関となった(同じ頃には軍人事を握る「軍事内局」も独立する)。その時点では参謀本部には大した権能はなく軍事相の諮問機関という程度の存在感で一時は他の部門(軍事内局)に統合されかけたりしたのだが、そんな頃の58年に参謀総長(参謀本部の長)となったのがモルトケだったのである。

 話を戻してデンマーク戦争に際し、連合軍の総司令官となったウランゲル元帥は参謀本部のような組織は軍務を複雑化するだけだとしてモルトケの従軍を許していなかった。結局プロイセン軍はジッペル攻略用の攻城資材の調達にあたりつつ3月30日には敵陣地から900メートルのところに第1攻撃陣地、4月11日には400メートルのことろに第2攻撃陣地という具合に前進を続け、14日には2〜300メートルのところに突撃陣地を構築、そのころ北方のフレデリキヤを攻略中だったプロイセン近衛師団を呼び戻した上で18日午前10時に満を持しての総攻撃をかけ、激戦の末に勝利した。デンマーク軍は海軍の艦砲射撃に守られつつアルセン島に退却した。プロイセン軍は新型のクルップ砲を用いており、装備面でデンマーク軍を圧倒していた。ただ、このジッペルの攻略には結局49日間もかかってしまっていた。プロイセン軍事相ローンはモルトケ参謀総長の進言を思い出して彼を戦地に送ることにした。

 プロイセン近衛師団が攻撃の途中で抜けたフレデリキヤの攻略にはオーストリア軍が向かったがそちらのデンマーク軍も4月28日には退却した。オーストリア軍はユトランド半島の大部分を占領した。5月9日にはテゲトフ提督のオーストリア・プロイセン連合艦隊3隻(大砲約40門)がヘリゴランド島沖にて大砲約120門を持つデンマーク艦隊の攻撃を撃退した。

 5月12日、イギリスの仲介による1ヶ月の休戦が成立した。しかし講和会議の席上ではプロイセン・オーストリアがホルシュタイン・シュレスウィヒの割譲を要求したのに対し、デンマークはその6分の1なら割譲を認めるとして譲らなかったため6月26日には戦闘再開となった。先にジッペルからアルセン島に退却していたデンマーク軍はジッペルよりさらに堅固な同島ゾンデルブルグ陣地に籠っていた。そこでプロイセン軍はモルトケ参謀総長の発案に基づき同島北端に上陸してゾンデルブルグを背後から叩く作戦をたてた。連合軍総司令官はウランゲル元帥からフリードリヒ・カール親王にかわっており、親王はウランゲルと違ってモルトケを強く信頼していた。

 そして150隻の船に分乗したプロイセン軍2万による29日の上陸作戦は、風浪のため2度失敗したが、午前3時には敵の砲火を受けつつも成功、翌日にはゾンデルブルグの占領に立ち至った。モルトケはさらにフューネン島、そして敵首都の所在するゼーランド島への上陸作戦を計画し、とりあえずフューネン島作戦に関するプロイセン国王の許可が出た。

 が、それが実現する前にデンマークの方から降参してきた。モルトケは残念がったが、これ以上戦いを続けると他国が介入してくる恐れがある。かくして10月に結ばれた「ウイーン条約」によってデンマークは2公国を放棄した。これをプロイセン・オーストリアでどう料理するかで交渉が続行され、翌65年8月の「ガスタイン条約」によって北のシュレスウィヒをプロイセンが、南のホルシュタインをオーストリアがそれぞれ統治することとなった。この形態がその翌年にこじれたことを直接の契機として勃発するのがプロイセンとオーストリアの戦争「普墺戦争」であるが、それについては本稿の述べるところではない。

                                おわり     


   参考文献


『世界戦争史9』 伊藤政之助著 1936年 (1985年原書房復刻版)
『参謀総長モルトケ ドイツ参謀本部の完成者』 大橋武夫著 マネジメント社 1984年
『ドイツ参謀本部』 渡部昇一著 中公文庫 1986年
『物語北欧の歴史 モデル国家の生成』 武田龍夫著 中公新書 1993年
『ドイツ史2』 木村靖二他編 山川出版社世界歴史大系 1996年
『北欧史』 百瀬宏他編 山川出版社新版世界各国史21 1998年
『ドイツ参謀本部興亡史』 ヴァルター・ゲルリッツ著 守屋純訳 学研 1998年
『ハプスブルク家かく戦えり ヨーロッパ軍事史の一断面』 久保田正志著 錦正社 2001年

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